中高生や大学生ら未成年者の自殺が急増している。厚生労働省の統計では、今年1~11月の自殺者数は707人(暫定値)。未成年者の自殺が700人を超えるのは1998年以来で、専門家はコロナ禍による生活の激変などの影響を指摘する。生きづらさを感じている子どもたちへのメッセージや、親や教職員らにできることを、子どもの心理に詳しい2人に聞いた。(長富由希子) 今年は多くの人々にとってとても負担感の強い年でした。みなさんの中には「友だちは元気そうなのに、どうして自分だけつらいんだろう」と思っている人もいるかもしれません。でも、あなたが弱いからでは決してありません。 家庭や学校環境に恵まれた子もいれば、困難を抱えて頑張ってきた子もいる。ギリギリで頑張ってきた子どもたちが一斉休校で困難な状況からの逃げ場を失い、さらに追い詰められたのではないかと感じています。あなたが今とてもつらいということは、きっと長い間、すごくすごく頑張って、いろんなことを耐えたり我慢してきたりした証拠じゃないかなと思います。 子どもは守られるべき存在で、… 【1/25まで】デジタルコース(月額3,800円)が今なら2カ月間無料!詳しくはこちら Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
修学旅行船の沈没「5分遅れ、近道し座礁」 船長が説明
香川県坂出市沖の瀬戸内海で11月、修学旅行中の小学生らが乗った旅客船が沈没した事故で、船長の男性(45)が高松海上保安部の調べに、船の遅れを取り戻そうと近道をし、暗礁になっていた岩にぶつかったと説明していることが捜査関係者への取材でわかった。現場は海図に示されており、高松海保は水路の確認が不十分だったとみて、業務上過失往来危険の疑いで任意の捜査を続けている。 事故を起こしたのは、高松海上タクシー(本社・高松市)が所有する「Shrimp of Art」(19トン)。11月19日午後4時40分ごろ、坂出市立川津小の6年生52人や教員ら計62人が乗り、同市沖の羽佐島(わさしま)北側を航行中、浅瀬の岩にぶつかった。約20分後に沈没したが、近くの漁船などに全員助けられた。 捜査関係者らによると、船は午後3時半ごろ、高松港(高松市)を出港。瀬戸大橋付近を遊覧した後、坂出港(坂出市)をめざし、瀬戸大橋のうち岩黒島と羽佐島の間にかかる「岩黒島橋」(790メートル)の下を西から東へ通過しようとした。 船長は当時の状況について「予定から5分ほど遅れていた」と説明。いつもは岩黒島寄りの幅の広い橋脚間(420メートル)を通るが、近道をしようと、これまでに通ったことのない手前の羽佐島寄りの橋脚間(185メートル)に向かい、岩にぶつかったと話したという。 海保によると、現場の備讃(び… 【1/25まで】デジタルコース(月額3,800円)が今なら2カ月間無料!詳しくはこちら Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
知的障害者へ性犯罪、相次ぐ立件見送り 法改正求める声
知的障害などがある人への性暴力について、刑法に「障害に乗じた犯罪」とする規定を設けるよう求める声があがっている。被害に遭っても理解できなかったり状況を説明できなかったりして、立証に困難を伴うためだ。被害者支援団体の代表らは「加害者とは知識や判断能力に差があることを踏まえた対応が必要だ」と訴える。 現行刑法は、強制性交罪などの成立には暴行や脅迫があったことを要件としている。だが、知的障害がある被害者は、自身が受けている行為が犯罪にあたるとの認識がなかったり、言葉巧みに性的行為をされたりする。抵抗を抑えつけられても状況を説明できないこともある。 こうした場合、「心神喪失もしくは抗拒不能(抵抗が著しく困難な状況)に乗じた」との規定がある準強制性交罪などを用いることがある。ただ、被害者に障害があっても適用が難しいケースもある。 法務省が3月に公表した報告書によると、2018年度に検察が「嫌疑不十分」として不起訴にした性犯罪は548件あり、うち少なくとも61件(11・1%)で被害者に障害があった。嫌疑不十分の理由のうち、被害者の供述が「客観証拠などと整合しない」とされたのが最多の17人で、「虚偽供述や記憶変容の可能性がある」(11人)、「看過しがたい変遷がある」(10人)と続いた。 性暴力事件に詳しい杉浦ひとみ弁護士によると、密室で行われやすい性犯罪は目撃者や証拠が少ないことが多く、被害者の証言が重要になる。だが、知的障害があると一貫した説明をすることが難しく、証言が揺らぐこともある。捜査に必要な日時を正確に言えず、被害の裏付けが難しくなることもあるという。 海外では、性犯罪処罰のなかに障害者に対する規定を設けているところもある。 韓国やフランスでは、被害者の身体や精神に障害があることを認識して犯行に及んだ場合、罪が重くなる。ドイツやイギリスなどでは、治療や相談にあたる立場を利用した性的行為は性犯罪とみなされる。 法務省は3月、有識者による「性犯罪に関する刑事法検討会」を設置。性暴力被害の実態を踏まえ、刑法の内容や手続きを見直すかどうか議論を続けている。性暴力ゼロをめざし啓発に取り組むNPO法人「しあわせなみだ」(東京)の中野宏美理事長は「現行法には限界がある。障害に乗じた犯罪を罰する規定を作ってほしい」と話す。(伊藤繭莉) 施設で性虐待、行政認定でも不起訴 知的障害につけ込む性犯罪は全国でたびたび起きている。 千葉地裁は4月、知的障害があ… 【1/25まで】デジタルコース(月額3,800円)が今なら2カ月間無料!詳しくはこちら Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
75年前も町に色はあった 戦中の白黒写真をカラーに
新潟県長岡市や市民が所蔵する戦前から復興期の7枚の写真が人工知能(AI)を用いてカラー化された。市、東京大学大学院の渡邉英徳教授、新潟日報社がてがけた。長岡空襲の記憶や体験者の思いの継承に役立てるのが狙いだ。 1945年8月1日の長岡空襲では、焼夷(しょうい)弾により市街地の8割が焼失し、1488人が犠牲となった。今年は75年の節目の年だがコロナ禍で平和関連行事が縮小し、空襲体験の伝承活動も難しくなる中、新たな試みとしてカラー化プロジェクトが始まった。 拡大するカラー化前のモノクロ写真(提供:清水誠一さん・「空襲から復興へ」写真カラー化プロジェクト) 拡大する清水誠一さん(88)の父・健治さん(手前右から3人目)の日中戦争出征祝いに親族や父の友人が集まった。隣の男性のひざに座るのが誠一さん=1937(昭和12)年(提供:清水誠一さん・「空襲から復興へ」写真カラー化プロジェクト) カラー化は、戦前の沖縄の写真のカラー化を朝日新聞などと手がけた渡邉教授が担当した。「戦前戦中は白黒で認識しがちだが、当然ながら色はあった。当時をカラー化した写真は多くの人にとって新鮮で、関心を高める」と話す。 市所有の写真5枚と個人の2枚を渡邉教授が8~9月にカラー化した。長岡空襲体験者5人に写真を見てもらい、写真にまつわる記憶や体験談を聞き取り。それを参考に渡邉教授が写真の色を補正する、という作業を繰り返した。 写真は22日以降は長岡戦災資料館で閲覧できる。来年以降は市のサイトへの掲載や、アオーレ長岡での展示を予定している。(伊丹和弘) 拡大するカラー化前のモノクロ写真=1945(昭和20)年10月下旬(提供:長岡戦災資料館・「空襲から復興へ」写真カラー化プロジェクト) 拡大する長岡市柿町の広西寺を学寮とした駒沢国民学校児童。東京に戻る前に撮影=1945(昭和20)年10月下旬(提供:長岡戦災資料館・「空襲から復興へ」写真カラー化プロジェクト) 拡大するカラー化前のモノクロ写真=1945(昭和20)年(提供:長岡戦災資料館・「空襲から復興へ」写真カラー化プロジェクト) 拡大する長岡空襲でがれきと市内の様子(表町2丁目)。右奥の塔がある洋風の建物は長岡六十九銀行(現北越銀行)=1945(昭和20)年(提供:長岡戦災資料館・「空襲から復興へ」写真カラー化プロジェクト) 拡大するカラー化前のモノクロ写真=1945(昭和20)年11月ごろ(提供:長岡戦災資料館・「空襲から復興へ」写真カラー化プロジェクト) 拡大する長岡空襲3カ月後の大手通りを長岡駅側から信濃川方面に向かって撮影。がれきが多く残っている=1945(昭和20)年11月ごろ(提供:長岡戦災資料館・「空襲から復興へ」写真カラー化プロジェクト) 拡大するカラー化前のモノクロ写真=1950(昭和25年)7~8月ごろ(提供:長岡市中央図書館・「空襲から復興へ」写真カラー化プロジェクト) 拡大する戦災復興や産業振興を目指して行われた新潟県産業博覧会の正面切符売り場。長岡博とも呼ばれ46万人が来場した=1950(昭和25年)7~8月ごろ(提供:長岡市中央図書館・「空襲から復興へ」写真カラー化プロジェクト) 拡大するカラー化前のモノクロ写真=1955(昭和30)年(提供:長岡市・「空襲から復興へ」写真カラー化プロジェクト) 拡大する長岡空襲から10年後の長岡駅前広場~大手通り。駅前広場には犠牲になった学童を悼む「平和像」(現在は平和の森公園に移転)が置かれている=1955(昭和30)年(提供:長岡市・「空襲から復興へ」写真カラー化プロジェクト) 拡大するカラー化前のモノクロ写真=1938(昭和13)年(提供:金子登美さん・「空襲から復興へ」写真カラー化プロジェクト) 拡大する金子登美さん(86)の家族写真。日中戦争から病気で帰国し、村松陸軍病院に入院中の父・忠治さんに抱かれているのが登美さん。後ろに母、左に兄。この7年後の長岡空襲で忠治さんと姉のミスさん(写真右)を失った=1938(昭和13)年(提供:金子登美さん・「空襲から復興へ」写真カラー化プロジェクト) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
街で人気の84歳 派手な服は娘の手づくり
「かわいい服ですね!」。街で声をかけられること数十回。白髪で小柄の女性が色鮮やかな装いで歩くから、まあ目立つ。84歳の母に娘が手づくりした服なのだ。 年の枠を超えてのびのび楽しく 「着ていて楽しいの」。奈良市の行司(ぎょうじ)美知子さんは声を弾ませる。ある日は、手編みの真っ赤なタートルネックのセーターに、厚いウールのジャンパースカート。端切れの大きなポケットが三つつく。「老眼鏡や鍵が入れられて便利なのよ」 服はすべて、次女で京都新聞に勤める千絵さん(50)がつくる。ワンピースやコートにセーター、その数は約100着。「私の服を着ていると、母が84歳という枠にはまらないで、のびのびと見える」とうれしそうだ。 千絵さんは自分に合う既製品が… 【1/25まで】デジタルコース(月額3,800円)が今なら2カ月間無料!詳しくはこちら Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
イメージ大違い?富士山、年の瀬迫っても全く冠雪せず
真っ白く冠雪した姿をだれしも思い浮かべる冬の富士山だが、静岡県側では年の瀬が押し迫っても全く雪のない状態が続いている。静岡地方気象台の観測では、県内は12月にほとんど雨が降らず、静岡市の25日までの降水量は0・0ミリ。厳寒の富士山頂でも空気が乾燥して雪にならないようだ。 田貫湖畔からの富士山の眺めが美しい「休暇村富士」(富士宮市)の支配人によれば、常連客からは「年末に雪がないのは初めてで驚いた」という声が出ているという。「でも、冬の澄んだ空気で大沢崩れの男性的な姿がくっきり見えます」とPRしている。(六分一真史) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
南アフリカから輸入の機械 税関職員が違和感、中には…
横浜港で9月、南アフリカからのコンテナが一つ、陸揚げされた。提出された書類に目を通した横浜税関の職員は、ふと違和感を抱いた。そこから、1カ月に及ぶある特殊な捜査が始まった。 日本から約1万3千キロ離れた、南アフリカ東部の港町、ダーバン。8月下旬、この港を1隻の船が出航した。積み荷には、工作機械が入った日本向けのコンテナ一つが含まれた。 コンテナは9月中旬に上海で別の船に移され、同月21日に横浜港に到着。南本牧ふ頭で陸揚げされた。 10月1日、輸入手続きを代行する通関業者が、このコンテナに関する輸入申告書類を横浜税関に出した。 「プラスチック射出成形機」 品目は英語でそう記されていた。プラスチックを熱で溶かし、金型に流し込んで成形する工作機械のことだ。輸入者は都内にあるミネラルウォーターなどの製造販売会社となっていた。 「南アフリカからそんな機械を?」 確かに実在する機械だが、海外… 【1/25まで】デジタルコース(月額3,800円)が今なら2カ月間無料!詳しくはこちら Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
児童ら6人全員を午後10時すぎに発見 広島・石岳山
27日午後5時すぎ、広島県東広島市と熊野町の境にある石岳山(559メートル)で「子どもたちが迷った」と親族から110番通報があった。小学校高学年の児童ら6人が下山せず、広島市消防局や海田署が捜索したところ、同日午後10時過ぎに6人全員を発見した。けがはなさそうだという。 市消防局などによると、6人には幼児も含まれているとの情報がある。携帯電話で連絡が取れる状態だった。捜索隊はGPS情報などで6人がいる場所をほぼ把握していたが、地形が険しく救助活動がしにくい状況だった。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
除夜の鐘の試し突き 京都・知恩院、当日はライブ配信も
浄土宗総本山の知恩院(京都市東山区)で27日、大みそかに鳴らす「除夜の鐘」の試し突きがあった。例年は多くの参拝者が詰めかけるが、今年は新型コロナウイルスの感染防止で立ち入りを制限。静寂に包まれた境内に、鐘の音が一足早く響き渡った。 鐘は「日本三大梵鐘(ぼんしょう)」の一つとされ、高さ3・3メートル、直径2・8メートル、重さは約70トンあり、僧侶17人で突く。子綱を持つ16人はマスクを着用し、「えーい、ひとーつ」「そーれ」の掛け声で、太い親綱を持った僧侶が撞木(しゅもく)に仰向けでぶらさがるようにして鐘を打ち鳴らした。 31日は午後4時半ごろに閉門し、夜間は境内に入れない。午後10時40分ごろから除夜の鐘を突き始め、YouTubeでライブ配信される。(小林正典) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
ガンプラは「おもちゃじゃない」 若手開発者たちの意地
「機動戦士ガンダム」のプラモデル「ガンプラ」が1980年夏に発売されてから、今年で40年になる。ガンプラは静岡市清水区にあった工場で開発され、一貫して静岡で生産されてきた。世界的にヒットした商品はどのような場所で生まれ、どのように生産されてきたのか。現場を歩いて当時を知る人に会いながら、その背景をたどる。 生産拠点 ブーム時は24時間態勢 JR東海道線の清水駅から歩いて約20分。静岡市清水区西久保の住宅街に、6階建てのマンションがある。それと示すものは何も残っていないが、ここはかつて、バンダイ模型の西久保工場があった「ガンプラ誕生の地」だ。 通りに面した3階建ての事務所に技術部門があり、奥には箱詰め作業場やトラックの配送場があった。もとは地元の模型会社「今井科学」の工場だったが、69年に倒産。バンダイが工場を引き継いで模型事業に本格参入し、71年に子会社「バンダイ模型」の本社をここに置いた。 拡大する静岡市清水区にあったバンダイの西久保工場=バンダイスピリッツ提供 近くに住む元従業員の山田勝世さん(83)は今井科学からバンダイ模型に移った。「両方で働いた人はけっこう多い。地元密着の工場で、近所の女性たちの仕事場だった」 「バンダイ模型には、今井の社風が引き継がれた」と語るのは、近所で金型工場を営む今井科学元社員の男性(79)だ。1959年設立の今井科学は帆船や戦艦などの木製模型から始まり、特撮やアニメのキャラクター商品で60年代のプラモデル市場を席巻した。 男性は「技術者集団、職人の集まりだった」という。電池やゼンマイで働く「鉄人28号」や「サンダーバード」で「技術のイマイ」「ギミックのイマイ」と呼ばれたが、倒産してバンダイに工場を売り、71年に会社を再建。社名を「イマイ」に変えたが、2002年に再び倒産して業界から姿を消した。 金型や工場を引き継いだバンダイは東京のおもちゃ会社で、模型を設計、生産するノウハウがなかった。そのため今井科学の元技術者たちが集められ、その若手の中からガンプラが生まれた。最初のガンプラを企画した松本悟さん(72)も、その一人だ。 70年代のバンダイ模型では「宇宙戦艦ヤマト」や菅原文太主演の映画「トラック野郎」などの模型がヒット。島田市出身の松本さんはその後釜となる商品を探しており、東京のバンダイ本社や栃木県にあった工場との対抗意識から「今井の残党組としての意地があった」。 企画設計の拠点だった西久保工場に対し、生産の拠点になったのは歩いて15分ほど離れた国道1号沿いにあった袖師工場だ。ガンプラ発売と同じ80年に開設され、ガンプラブームでは24時間態勢で稼働した。 拡大する静岡市清水区にあったバンダイの袖師工場=バンダイスピリッツ提供 あまりの人気に、生産は追いつかなくなった。袖師工場の近くに住む女性は、当時を振り返って「よくテレビ局が来て、ここが話題のガンプラ工場です、と中継していた」と教えてくれた。ガンプラが手に入らない子どもが工場に入って盗み、警察が来る騒ぎになったこともあるという。 西久保工場と袖師工場は2006年に閉鎖され、拠点は車で20分ほど離れた静岡市葵区長沼の「バンダイホビーセンター」に移った。白い建物はカーブを描き、玄関には巨大なガンダムのイラストが掲げられている。プレハブと倉庫からなる工場とは違い、展示や広報の機能も持ったモダンな施設だ。 初代ガンプラ(144分の1)は全高12・5センチで、白一色のパーツ数は48点。値段は300円だった。40周年を迎えた今年12月、「現時点で究極のガンプラ」をうたう新商品が発売された。全高約30センチ。約90カ所を動かすことができ、パーツ数は660点。税込み2万7500円という大型モデルだ。 拡大する1980年に発売された初代のガンプラ(144分の1)と金型=矢吹孝文撮影 新商品を含めたガンプラは、今でも原則すべて静岡で作られている。 「ここまで成長した商品に関われて幸せだった」と語るのは、最初のガンプラを設計した村松正敏さん(73)だ。ホビーセンターでも勤務して2012年に退職した村松さんは清水出身で、今井科学の元社員だ。「模型産業が盛んな静岡だから人材が集まった。東京ではガンプラはできなかっただろう」 ホビーセンターでは増設した新工場が12月に稼働し、生産能力が1・4倍になった。 「機動戦士ガンダム」は1979年に放映が始まり、バンダイ模型が翌80年にプラモデルを発売して「ガンプラブーム」が起きました。40年間で4500種類、累計の売り上げは7億個以上に上ります。記事の後半では、ガンプラの技術者や内職で支えた女性がブームを振り返り、「機動戦士ガンダム」の富野由悠季総監督が、原作者の視点でガンプラを語ります。 ■生き残るため、時代取り… 【1/25まで】デジタルコース(月額3,800円)が今なら2カ月間無料!詳しくはこちら Source : 社会 – 朝日新聞デジタル