鹿児島県霧島市の乗馬クラブで指導していた50代男性が昨年12月、教え子の男子高校生に暴行していたことが分かった。男性は県馬術連盟の理事と強化委員長を務めていたが、連盟は倫理規定に違反するとして1月に解任した。 連盟などによると、男性は昨年12月10日、同市の乗馬クラブで乗馬の準備が指示通り終わっていなかったとして、生徒の顔を手でたたき腹部を蹴ったという。 生徒は全治1週間のけがと診断された。暴行以降、生徒はこのクラブの練習に参加しなくなった。 男性は国体での優勝経験があり、監督としても10回以上参加したという。朝日新聞の取材に「うそをついたと思い、かっとなった」と話した。(小瀬康太郎) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
家族5人、車のラジオで聞いたあの声 10年後に会えた
大震災の夜、移住先の福島県田村市は停電で明かりを失った。家族5人は車の中で毛布にくるまり、朝を待った。不安で眠れずにラジオをつけた。 「街は壊滅です」。津波被害を受けた福島県沿岸部の様子を、泣きながら伝え続ける男性の声を聞いた。「私も踏ん張らねば」。 11日、あの声と10年ぶりに栃木県益子町で「再会」した。内田啓子さん(47)は震災の約4カ月前、さいたま市から福島県田村市に夫と3人の子どもと移り住んだ。移住前、夫は残業続きで週末も休めない日が多かった。1人で子育てする「ワンオペ」状態。家族で過ごす時間がほしくて移住を決めた。 夕方に帰宅する夫が3人の息子(3歳の双子、1歳)と一緒に風呂に入るのが日課になった。夜には満天の星に包まれた。しかし、新生活を震災が断ち切った。田村市は震度6弱。裏山のがけ崩れを心配して、夜は近くの商業施設の駐車場で車中泊した。 深夜。津波がのみ込んだ街の様子をラジオで伝えたのは同県南相馬市の印刷会社長川又啓蔵さん(48)。震災当日から地元のAM局「ラジオ福島」でリポートを続けた。海から約4キロ離れた印刷会社の屋上から、「1キロ先まで津波が押し寄せています」「漁船が流されています」と惨状を伝えた。川又さんはテレビ局の勤務経験があった。 内田さんはラジオの情報だけが頼りだった。放送局にはリスナーから次々と情報が寄せられた。「うちには井戸があります」「店の電気は消えているけど、ものは売っています」。内田さんは「あの時はみんなが一生懸命だった。ラジオの声に励まされ、心を奮い立たせた」。 一夜明けた朝、一家は約20キロ先にある東京電力福島第一原発の事故を恐れて内田さんの実家がある真岡市に向かった。原発が立つ沿岸部から川又さんがリポートした「街は壊滅」との言葉が頭から離れなかった。出発直後、1号機の原子炉建屋は水素爆発した。 内田さんは11日、栃木放送の番組に益子町の自宅から出演し、川又さんのインタビューを受けた。10年前の3月12日早朝の川又さんのリポートを一緒に聴いた。「電気もない中、ラジオだけを頼りに朝を迎えた方、我々が近くにいますんで頑張ってください」。涙声だった。内田さんは「人がつくったものがことごとく壊れる中、お互いを勇気づける言葉が温かく、とてもありがたい存在でした」と目を潤ませた。 原発事故を機に、なぜ自分の幸… 2種類の会員記事が月300本まで読めるお得なシンプルコースはこちら Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
震災4カ月後の優勝 澤穂希さん「見えない力が背中を」
2011年7月、サッカーの日本女子代表はドイツで開かれたワールドカップ(W杯)で世界一に輝いた。その年末、世相を映す「流行語大賞」で愛称の「なでしこジャパン」は大賞に選ばれた。「日本中に希望と勇気を与えた」が授賞理由だった。主将だった澤穂希さん(42)に、あの夏を振り返ってもらった。 東日本大震災が起きた11年3月11日は、なでしこジャパンがポルトガル遠征から帰国した日だった。 「私は東京都府中市の実家に母と居ました。寝不足もあって、テレビを見ながらうとうとしていたら、すごい揺れが来ました。食器棚が倒れないように母が必死におさえていたのを、覚えています」 東日本大震災から3カ月後に開… 2種類の会員記事が月300本まで読めるお得なシンプルコースはこちら Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「トトロの森」買い取って55カ所 里山守った30年
狭山丘陵の里山保全に取り組む公益財団法人「トトロのふるさと基金」(事務局・埼玉県所沢市)が昨年、設立30周年を迎えた。その取り組みは、市民らの寄付金で雑木林などの土地を買い取って保全管理し、環境調査を積み重ねる「ナショナル・トラスト活動」と呼ばれる。事務局長の北浦恵美さん(55)に、活動の現状と展望を聞いた。 ――これまでに取得した「トトロの森」は55カ所にもなります 個人や企業による寄付金の総額は9億5千万円を超えました。「本当に多くの人たちに支えられているのだな」と実感します。買い取った雑木林などの土地は、所沢市を中心に入間市や東京都の東村山、東大和両市などで計約10・4ヘクタール。ここ10年ほどは基金の活動への理解が深まり、「土地を買い取ってほしい」という地権者の方々や土地の無償寄付も増えています。 ――一方で、乱開発につながる動きはなくなりません 東京と埼玉にまたがる狭山丘陵は約3千ヘクタールと広大で、都心から近いために開発の手が伸びやすい。近年は東京五輪に向けての土地買収や開発も増えました。森や小川、湿地など里山の景観が失われ、そこに息づいていた生きものたちが姿を消すといった例も後を絶ちません。だからこそ息の長い取り組みを通じて、自然環境を守っていく必要があるのです。 ――ナショナル・トラストを進める意義は何ですか ある開発計画を反対運動でストップさせることができたとしても、次にまたどんな計画が出てくるか分かりません。私たちが土地の所有権を持てば、乱開発から守ることができます。地権者にとって土地は「財産」ですが、思い入れを持って大切に手入れしてきた方も多い。ナショナル・トラストは、地権者の方々と協力しながら「恒久的」に環境を保全していくための重要な手段なのです。 ――取得地の保全管理は誰が担っているのですか ボランティアの方々を中心に、伐採や下草刈り、落ち葉掃きなどの作業を定期的に実施しています。職員も作業にあたり、現在16ある「協力団体」や地元の方々の協力も欠かせません。今年度の会員約1200人のうち、登録制のボランティアとして活動するのは約150人。森の管理方針を決めるため、職員と一緒に動植物の確認調査をしてもらうこともあります。 ――「これからの30年」に向けた展望と課題を教えてください 取得した「トトロの森」は、狭山丘陵全体から見ればごくわずかな面積にすぎません。今後も取得する森をさらに増やし、森と人とが共存するための管理を続けていくことが重要になります。ただ、こうした活動は資金面の負担が大きいのも事実。「恒久的」に森を保全していく仕組みづくりと、ボランティアなどの「担い手」をどう育てていくかは今後、ますます大きな課題となりそうです。 カエルやオタマジャクシにカブ… 2種類の会員記事が月300本まで読めるお得なシンプルコースはこちら Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
身元不明なお6体「遺族の元に…」終わらない執念の捜査
宮城県警本部(仙台市)の地下1階にある窓のない小部屋。4人の捜査員が机を向かい合わせて座ると、もう手狭だ。棚には、東日本大震災で見つかった身元不明遺体の検視データや無数の写真が納まる。 特集企画「会いたい、会わせたい」 東日本大震災から10年。行方不明者はなお2500人を超え、今も家族を捜す人たちがいる。遺体の身元捜査を続ける警察、身元が分かっているのに引き取り手がない遺骨……。「会いたい」「会わせたい」。人々の思いが交錯する。 特集企画「生きる、未来へ」 3月11日、発生から10年となる東日本大震災。愛する人を失った悲しみ、住み慣れた土地に戻れない苦しさ……。さまざまな思いを抱え、歩んできた3家族を通して、被災地のこれまでを振り返る。 その傍らに、宮城県沿岸部の大きな地図が掲げられている。シールが指し示すのは、不明遺体が見つかった場所だ。特定できれば1枚ずつはがしてきた。 陸地で見つかったことを示すオレンジ2枚、海での緑4枚――。震災から10年を迎えても、6体の身元が分かっていない。これらを遺族の元に戻すべく、捜査1課の「身元不明・行方不明者捜査班」が地道な作業を続けている。 拡大する地図に貼ってある遺体発見場所のシール。陸地だとオレンジ、海中だと緑にしているという=仙台市青葉区の宮城県警本部 捜査班が22人態勢で発足したのは、震災から8カ月後の2011年11月。これまでに約560体の身元を特定してきた。 班長を務める菅原信一検視官(63)は、東日本大震災は遺体の身元が特定しづらい「開放型」の災害だという。 拡大する遺体の身元特定作業について語る捜査班長の菅原信一検視官=仙台市青葉区の宮城県警本部 乗客名簿がある航空機事故や、建物倒壊などによる犠牲者が相次いだ阪神・淡路大震災の「閉鎖型」と違い、津波で広い範囲に流されてしまうと手がかりそのものが失われてしまう。遺骨が白骨化したり、一部しか見つかっていなかったりと損傷も激しい。 特定の鍵となるのが、遺体から採取するDNA型による鑑定だ。県警は行方不明者届を受理する際、不明者の親族たちにDNA型採取の協力を依頼。他県の行方不明者の情報も取り寄せ、データベースを作成して型の近い人を絞り込んできた。 コンピューターがはじき出す候補は1人あたり5~20人ほど。赤の他人でも型が似ていることは珍しくない。しかも、遺体に皮膚や毛髪が残っておらず、地中や海中に長期間あった骨だと、DNA型そのものが変性してしまうこともある。 そもそも身寄りがなくて届けが出ていない場合もあり、結局は地道な捜査が必要になる。 「遺骨に名前をかえすこと」。菅原班長は身元特定の作業をこう表現する。名前を取り戻すことで、骨に刻まれたその人の人生が浮かび上がる。「家族にかえしてあげたいという思いでチーム一丸となってやっている」 拡大する捜査班の部屋には、遺体の発見日時や持ち物、死因などをまとめたファイルが並ぶ=仙台市青葉区の宮城県警本部 不明遺体を特定していく中で編み出した独自の手法もある。 東日本大震災で県警が収容した遺体は約9500体で、見つかった不明遺体は計約1250体。身元を特定していて地図に落とし込んでいくうちに、遺体の発見場所とその人たちの住所に関連があることが分かった。津波にのみ込まれた人は、その周辺の人たちとともに同じ場所に漂着したと類推できた。 この地図分析が生きたのが、石巻市南浜町の阿部きうさん(当時99)だ。20年7月、遺族の手に渡った。 阿部さんの遺体は11年5月、市内の入り江のがれきから見つかっていた。発見場所近くのほかの遺体の身元を調べると、南浜町近辺の人が多いことが分かった。同町でまだ行方が分かっていない人のうち、性別や身体的特徴などから阿部さんが浮上した。 捜査班は、阿部さんにまつわる家系図を作り上げ、生存している妹とおいのDNA型を鑑定して特定したという。 拡大する阿部きうさんの遺骨は、おいの管野一之さん(右)に引き渡された=2020年7月2日午前10時31分、宮城県石巻市 遺骨を受け取ったおいの管野一之さん(80)は「感無量だ。ようやく私の胸に抱かれ本人は喜んでいると思う」と迎えた。管野さんの母たゑ子さん(当時97)が眠る寺に遺骨を納めた。 生前の顔を再現した似顔絵も12年5月から公開してきた。全国で初めて県警のホームページに掲載。100人の似顔絵のうち、25人の身元を特定。県警OBで「鑑識技能伝承官」の安倍秀一さん(71)らが、頭蓋骨(ずがいこつ)から生前の顔を再現する「復顔法」を用いた。 拡大する菅原検視官(左)率いる捜査班には、安部裕樹警部補といった若手も所属している=仙台市青葉区の宮城県警本部 さらに、岩手県を含む沿岸部の仮設住宅などに出向いて、似顔絵や持ち物を示して話を聞く「情報交換会」も開いた。 女川町女川浜の平塚真澄さん(当時60)の遺骨が19年4月に親族の元に戻ったのは、この似顔絵がきっかけだった。 似顔絵を見た親族が「顔が似ている」と情報提供し、この親族を通じてたどり着いた青森県八戸市の異母弟が、平塚さんからの手紙を保管しているのが分かった。封筒の指紋を調べても特定にはつながらなかったものの、捜査員がふと「切手をなめてつけたのでは」と思いつき、切手からDNA型を採ると、ぴったりと一致したという。 拡大する遺体の写真を保管している棚。引き出しには検視した場所を示すシールを貼っている=仙台市青葉区の宮城県警本部 菅原班長が捜査班を率いるようになった18年4月の時点で、残された身元不明の遺体は10体だった。前任者からは「やれることはやったよ」と引き継ぎを受けた。 不明遺体が減るに従い、捜査班の人数も縮小。いまのメンバー4人のうち、現役の警察官は30代の警部補のみで、菅原班長を含めた3人は定年退職後に非常勤で再任用されたOBだ。それでも、「初心忘るべからず」との思いで1体1体と向き合ってきた。 DNA型鑑定を依頼した大学教授から、電話口で「よかったね!」と一言あれば、部屋に喜びの声が広がる。「『やったね』しかない。ようやくたどりついた瞬間だ」 ただ、10年という歳月が重くのしかかる。 長い捜査を経て身元を特定した遺骨の引き取り手をたどっても、子どもといった近しい人がすでに亡くなってしまい、遠戚から引き取りを拒まれることもある。 「誰に引き取ってもらえたらご遺骨も本望か。その思いが今は強い」 拡大する不明者捜索のため、宮城県警の警察官が海岸の砂利を棒で掘り起こして調べていた=2019年9月11日、宮城県南三陸町 20代のころ、菅原班長は妻と生まれたばかりの長男と3人で、宮城県南三陸町の伊里前駐在所で勤務した経験がある。 当時住んでいた場所は、津波で跡形もなくなった。結婚式に出席し、弟のようにかわいがっていた10歳ほど年下の知人も亡くなった。 行方がわからないままの人もいる。「あまりにも知っている人が多すぎて、お参りするにしても、しきれないぐらい」 沿岸部を訪れると、今でもよく知った顔が浮かんできて、胸が詰まる。班長になったからには恩返しがしたいが、10年が経った今も気持ちは整理できていない。 震災によって行方が分からなくなった人は21年1月時点で、宮城県内で1200人を超える。70人超とみられる部分遺骨からはDNA型が検出されないものも少なくない。 捜査班が特定を進める6体には、遺骨や似顔絵、所持品といった手がかりが、わずかだがある。「なんとか遺族の元にかえしてあげたいという思いでいっぱいだ」。菅原班長は前を向く。(川野由起) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「骨ひとかけらでも」 手がかり探す家族、支える人たち
東日本大震災では、いまも2500人以上の行方がわからず、遺体が見つかったが身元がわからない人も岩手、宮城両県で計54人にのぼる。骨のひとかけらでも、戻ってきてほしい――。大切な人を捜し、それを支える人たちの営みは、これからも続く。 【震災特集】会いたい、会わせたい 東日本大震災から10年。行方不明者はなお2500人を超え、今も家族を捜す人たちがいる。遺体の身元捜査を続ける警察、身元が分かっているのに引き取り手がない遺骨……。「会いたい」「会わせたい」。人々の思いが交錯する 献花の会場となった岩手県陸前高田市の市民文化会館。その別室に設けられた相談会場に11日朝、行方不明の妻を捜しているという男性(74)が訪れた。「身元不明の遺体の似顔絵が、私の妻に似ていると知人から聞いたので」 黒いネクタイをしめた岩手県警科捜研の佐々木善敏さん(58)が、「7年前にも、きてくれた人だ」と思い出しながら、似顔絵が挟まれている分厚いファイルをめくる。データベースに登録されたDNA型の採取状況などを調べたが、妻と一致するものはなかった。「残念だけど、また来てみようかな」と話す男性を、佐々木さんはもどかしい思いとともに見送った。 震災直後、佐々木さんは盛岡市… 2種類の会員記事が月300本まで読めるお得なシンプルコースはこちら Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
バス乗ろうと…勤務終了2分前に退勤 市教委が8人処分
繰り返し勤務時間終了前に退勤したり、代理でタイムレコーダーの打刻をしたりしたとして、千葉県船橋市教育委員会は、市教委生涯学習部の課長補佐級の女性ら職員8人を処分し、10日発表した。帰りのバスの時間に間に合わせるためだったという。 市教委によると、8人は市内にある出先の同じ職場に勤めていた2013年4月~今年1月に4人が316回~8回、勤務時間終了(午後5時15分)の約2分前に退勤。6人が5時15分以降に代理でタイムレコーダーに打刻していた。 市教委は、316回不正退勤していた課長補佐級の女性(59)を減給10分の1(3カ月)の懲戒処分とし、14回不正退勤し、代理打刻もしていた元同部職員の男性(27)と、233回不正退勤の会計年度任用職員の女性(64)を文書による訓告、5人を厳重注意とした。給与については、3人からそれぞれ約13万7千円~約250円の返還を求める。 職員たちが勤める施設は、市内でも交通が不便な地域にあり、退勤時間直後に最寄りのバス停から出るバスは午後5時17分発で、次発は30分後。17分発のバスに乗るため、この職場では数年前から不正が常態化していた。市教委が別の職員の勤務相談をしている中で発覚したという。 次発のバスまで職場にいても、「残業」とするにはその都度手続きが必要という。市教委は「職員の都合で施設の開館時間や出退勤時間をずらすことはできない」としている。(平井茂雄) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「犬が中に」 民家火災、焼け跡から1人の遺体 福岡
11日午前8時ごろ、福岡市博多区千代4丁目の住宅から火が出ていると、近くの人から119番通報があった。県警によると、2階建て住宅が全焼し、焼け跡から性別不明の1人の遺体が見つかった。近隣の住宅3棟にも延焼し、近くの女性が体調不良を訴えた。 博多署によると、全焼した住宅には、50代の女性が一人で暮らしており、連絡が取れていないという。消防によると、火は約7時間後に消し止められた。 近所に住む30代の男性は、火元とみられる住宅の女性から消防車を呼ぶように頼まれ、激しい炎が上がっているのを見た。住人の女性は「犬が家の中にいる」と言っていたが、その後行方がわからなくなったという。署は遺体の身元の特定を進めている。(川辺真改、島崎周) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
進まぬ帰還、住民は2割 切り札は住民の思いと遠く
住民を戻すことが大きな目標だった福島の復興が転機を迎えている。東京電力福島第一原発事故で出された国の避難指示は約7割の地域で解かれたが、地元で暮らす人は事故前の2割弱にとどまる。国や福島県は「外」から住民を呼び込む政策にかじを切りつつあるが、先行きは見通せない。 「地域コミュニティーは崩れかけている」 福島第一原発の南西約10キロ、福島県富岡町の下千里地区。耕されなくなった田んぼは雑草が生え、家が解体されたままの更地があちこちにある。 バラ農園を営む山本育男さん(62)は、近所の人が町に戻らない現実に肩を落とす。「夜、明かりがともった家が少なく、外は真っ暗。寂しいよね。元の地区の姿は取り戻せない」 原発事故で町全域に避難指示が… 2種類の会員記事が月300本まで読めるお得なシンプルコースはこちら Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
津波で亡くなったシングルマザー 残された息子はいま
大切な人、住み慣れた町を一瞬にして奪われたあの日から10年が経ちます。残された人たちは苦悩を抱えながら、互いに支え合い、生きてきました。 私たちは、家族の歩みをカメラで記録してきました。写真には、それぞれが見つめる「あなた」への思いが詰まっていました。 特集企画「生きる、未来へ」 3月11日、発生から10年となる東日本大震災。愛する人を失った悲しみ、住み慣れた土地に戻れない苦しさ……。さまざまな思いを抱え、歩んできた3家族を通して、被災地のこれまでを振り返る。 特集企画「会いたい、会わせたい」 東日本大震災から10年。行方不明者はなお2500人を超え、今も家族を捜す人たちがいる。遺体の身元捜査を続ける警察、身元が分かっているのに引き取り手がない遺骨……。「会いたい」「会わせたい」。人々の思いが交錯する 2011年5月、6歳の佐々木颯(そら)さんと出会った。颯さんの母、加奈子さん(当時33)は津波に流され、不明のままだった。震災の3年前、離婚後に埼玉県から実家のある岩手県山田町に戻り、保険の外交員をしながら颯さんを育てていた。「颯ちん、おいで」。帰宅すると家で待つ颯さんを必ず抱きしめた。 母に会えない寂しさから「俺も津波に流されたらママに会えるかな」と祖父の正男さん(70)、祖母の悦子さん(69)を戸惑わせた。夜、「ママは本当に帰ってこないの?」と声をあげて泣いた。「声をあげて泣いたのはあの時の一度きりだけ」。悦子さんは振り返る。 「いつまでもこのままにしておくわけにはいかない」。7月、正男さんらは加奈子さんの死亡認定の手続きをした。8月16日、お盆の送り火の花火で、颯さんは母を見送った。「お盆が終わったからママは天国へ帰るんだよ」と正男さんが言うと、颯さんは急に黙り込んだ。「ママ、バイバイ」。絞り出すように颯さんは加奈子さんに語りかけた。花火から立ちのぼる白い煙が夜空に消えていった。 拡大する昨年は加奈子さんとした送り火の花火。「お盆が終わったからママは天国へ帰るんだよ」「ママ、バイバイ」。8月16日、颯さんは祖父の正男さんと2人で夜空に加奈子さんを見送った=2011年 DNA鑑定で判明した加奈子さんの遺骨が9月、自宅に戻ってきた。遺骨が納められた小さな箱を前に、「ママが家に帰ってきた」と言い聞かせながら、颯さんは目から涙をこぼした。母親の「死」を懸命に受け入れようとしているように、悦子さんには見えた。 翌年3月、納骨を終え、遺骨は… 2種類の会員記事が月300本まで読めるお得なシンプルコースはこちら Source : 社会 – 朝日新聞デジタル