A Fuskushima, au Japon, le 11 mars 2021. KIM KYUNG-HOON / REUTERS A 14 h 46, le Japon s’est figé, jeudi 11 mars, à l’heure exacte à laquelle le séisme avait frappé le pays, dix ans plus tôt. Une minute de silence a été observée dans tout le Japon, suivie à Tokyo d’une cérémonie […]
「思い出の品展示場」、最後の3.11 管理人の心残り
津波に流されて金具が壊れたランドセルに、縫い目がほつれたぬいぐるみ。二つ折りの携帯電話や位牌(いはい)……。福島県浪江(なみえ)町の「思い出の品展示場」には、津波の被災地で見つかった住民の持ち物が並ぶ。まだ、約1万5千点が残っているが、21日に閉鎖される。 元町職員で、管理人の川口登さん(71)は「展示場にとって最後の3月11日。残りわずかの日々だが、一人でも多くの人に品を届けたい」と話す。 町の中心部に近い国道沿いに展示場ができたのは、2014年7月。当時は町の全域で原発事故による避難指示が続いていた。町では沿岸部の請戸(うけど)地区などが津波に見舞われ、がれきから大量の「思い出の品」が見つかっていた。 墓参りや一時帰宅で訪れる持ち主に品物を返すため、町などが空き店舗を改装し、展示場は始まった。がれき処理を担う環境省が建設会社に運営を委託した。 川口さんは3年前の3月、60代の男性に祖父の位牌を返した。男性は「がれきの中から、よく見つかったなあ」。位牌に語りかけた。川口さんが、位牌の裏に刻まれた名字と発見場所から持ち主を推測し、町を通して連絡した人だった。 戻ってきた両親の「証し」 川口さん自身も震災後、大切な品との再会に支えられた。 あのときの津波で両親を失った… 2種類の会員記事が月300本まで読めるお得なシンプルコースはこちら Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
教育史伝える珍しいスポット 京都市学校歴史博物館
「まだまだ勝手に関西遺産」 京都・四条河原町から南へ歩いて約5分。古い町家も立つ住宅街の一角に、重厚な石塀と城門のような立派な正門が現れる。1992年に閉校した京都市立開智小学校の校舎を利用した京都市学校歴史博物館だ。明治以降の京都の教育の歴史を様々な資料で紹介する。正門も石塀も明治・大正期の建築で開智小時代のもの。ともに国の登録有形文化財だ。 展示室入り口にはアーチ型屋根をもつ1875(明治8)年築の旧成徳小の玄関車寄せが移築されている。これも国登録有形文化財。「現存する京都市最古の学校建築です」。学芸員の林潤平さん(33)と業務係長の佐々木秀希さん(47)が教えてくれた。 拡大するアーチ型屋根が美しい京都市学校歴史博物館の展示室入り口。「日本の歴史は学校なしでは語れない」と学芸員の林潤平さん=京都市下京区、滝沢美穂子撮影 拡大する1901年築の城郭をモチーフにした高麗門様式の正門と1918年築の石塀。92年に閉校した京都市立開智小学校当時のもの=京都市下京区の京都市学校歴史博物館、滝沢美穂子撮影 ■古い教科書や通知表 実験器具… 2種類の会員記事が月300本まで読めるお得なシンプルコースはこちら Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
鉄道ジオラマ博物館、歴史に幕 四半世紀ファンに愛され
巨大な鉄道模型のジオラマを展示する私設ミュージアム「トレインギャラリーNAGANO」(長野県須坂市)が14日、およそ四半世紀の歴史に幕を閉じる。オーナーで館長の深沢慶一さん(76)=長野市=が、体力の衰えから決断した。新型コロナの影響で客が激減したことも一因という。 深沢さんは幼少期から大の鉄道好き。毎日、長野駅近くの跨線橋(こせんきょう)で列車を眺めていたという。小学生のときに祖母から電気機関車の模型をもらい、鉄道模型にのめり込んだ。家業の酒卸業やコンビニ経営の傍ら、約4千両を収集。新幹線の長野駅が開業した1997年、コレクションを公開するトレインギャラリーをオープンした。 展示の目玉は、約60畳分の広さの巨大なジオラマ。善光寺や碓氷峠など長野らしい景観を配し、国鉄時代に製造された車両「115系」や特急「あさま」などゆかりの電車のほか、引退した0系新幹線「こだま」や寝台特急「北斗星」など往年の約400両が自動制御で走る。 模型はすべて、Nゲージ(レール幅9ミリ)より大型のHOゲージ(同16・5ミリ)と呼ばれるタイプ。JR姨捨(おばすて)駅(千曲市)でスイッチバックして入線したローカル線の電車を特急「しなの」が追い抜くなど、実際の運行を再現したこだわりのジオラマは鉄道ファンからも愛された。開業当初は、1日3千人が入館することもあったという。 ただ、受け付け業務は家族らが手伝うが、老朽化したジオラマのメンテナンスや模型の修理などはすべて深沢さんが1人で担ってきた。年中無休をやめるなどしたが、「体力的に限界だった」(深沢さん)。新型コロナの影響で、県外の観光客らが激減したことも決断を後押ししたという。 常連客からは親しみを込めて「お父さん」と呼ばれた深沢さん。「若いころからの夢だった博物館をオープンできて幸せだった。寂しい気持ちもあるが、小さい子どもから年配の夫婦まで、多くの人たちに喜んでもらえたので悔いはない」と話した。 14日まで毎日午前10時~午後2時(12日のみ正午~午後2時)に開館。入館料は大人800円、小中高生400円。模型車両の多くは希望者に有償で譲る(応相談)。施設のシンボルで、屋外に展示する引退した長野電鉄2500系の実車2両は現在、譲渡先と交渉中という。問い合わせは、トレインギャラリーNAGANO(026・248・4188)へ。(滝沢隆史) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
三菱電機の新入社員自殺、労災認定 上司から「殺す」
2019年夏に三菱電機の男性新入社員(当時20代)が自殺したことをめぐり、尼崎労働基準監督署(兵庫県)が労災だと認定したことがわかった。教育主任だった上司から「殺すからな」などと言われたことが原因だったと判断したとみられる。遺族側の弁護士が11日、会見して明らかにした。 認定は2月26日付。遺族側が20年9月に労災を申請していた。 遺族は弁護士を通して11日にコメントを公表し、「息子のケースは未然に防げたはずです。労災認定を機に、今度こそ真剣に組織を挙げて、職場環境の改善に努めてほしい」などとした。 三菱電機では心身の健康を害する社員が続出している。労災認定が判明するのは、14年12月以降ではこれで6人目で、このうち3人が自殺している。ほかに子会社でも19年10月に社員の過労自殺が労災認定されている。 社員の自殺が労災と認められる… 2種類の会員記事が月300本まで読めるお得なシンプルコースはこちら Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
【震災10年の一日】楽天の銀次選手「常に被災地を…」
死者・行方不明者、震災関連死を含め2万2192人が犠牲になった東日本大震災から、11日で10年。復興事業を中心とした第1期の「復興・創生期間」を経て、今後は心のケアなどに取り組む第2期に移ります。昨年はコロナ禍で中止された政府主催の追悼式が2年ぶりに開かれ、発生時刻に合わせて全国で祈りがささげられる予定です。各地の一日の動きをタイムラインで伝えます。 特集企画「生きる、未来へ」 3月11日、発生から10年となる東日本大震災。愛する人を失った悲しみ、住み慣れた土地に戻れない苦しさ……。さまざまな思いを抱え、歩んできた3家族を通して、被災地のこれまでを振り返る。 14:46 東電社長、訓示後のぶら下がり取材なし 福島第一原発(福島県大熊町、双葉町)の廃炉作業を続ける東京電力の役員や社員らは、震災の発生時刻にあわせて黙禱(もくとう)した。新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、小早川智明社長は東京都港区の本社からテレビ会議などを使って、福島第一にいる社員らに訓示した。小早川氏は「福島の復興、福島の未来のために、それぞれの持ち場で全力を尽くしてほしい」と述べた。 拡大するテレビ会議などを通じて、東京電力福島第一原発にいる社員らに訓示する小早川智明社長=2021年3月11日午後2時47分 原発事故後、東電の社長が3月11日に福島に来県しなかったのは初めて。13年から続けてきた訓示後のぶら下がり取材もなかった。 地震と津波で被災した第一原発は、1~3号機の原子炉を冷却できなくなり、核燃料が溶け落ちる「メルトダウン」を起こした。溶け落ちた核燃料(デブリ)は計約800~900トンとされるが、取り出しはまだ始まっていない。 14:15 「災害時、役立てるラジオに」 京都府の九つのコミュニティーFMラジオ局が防災番組の合同放送を企画し、京都市中京区の同時代ギャラリーで公開収録した。震災当時の記憶やその後の取り組みなどについて、各局の担当者がリレートークを行い、6局が生放送した。 震災の経験や記憶を継承することや、大規模災害に備え、連携を深める狙い。テレビ会議システム「Zoom(ズーム)」で、同時代ギャラリーと各局のスタジオをつないだ。 宇治市、城陽市、久御山町がエリアの「FMうじ」は震災後、東北の人々の声を毎週届けてきた。パーソナリティーの喜田晶子さんは「小さな変化も放送し、災害時に役立てるラジオにしたい」と語った。 13:10 大槌・吉里吉里で震災犠牲者の法要 岩手県大槌町吉里吉里の吉祥寺で震災犠牲者の法要があり、約100人が参加した。新型コロナ対策のため、読経は境内で聞き、順番に本堂に入って拝んだ。 お年寄りの多い列の中に、運動着姿の高校生がいた。県立大槌高校2年、岡谷美海さん(17)はバレー部の練習の後にかけつけた。母と幼い2人の妹、曽祖母の4人を震災で亡くした。 「こういう時でないとちゃんと近況報告できないと思って来ました。保育士になって地元で働くために短大をめざして勉強がんばっているので、見守っていてくださいとお願いしました」。この10年、つらい時もあったが、「いつも一緒にいてくれる友達と普通に話すことで気が楽になれました」。 拡大する法要で手を合わせて拝む岡谷美海さん(中央)=2021年3月11日午後1時7分、岩手県大槌町吉里吉里の吉祥寺、東野真和撮影 13:00 気仙沼の高台に復興祈念公園 宮城県気仙沼市の高台に、震災復興祈念公園が開園した。遺族らは、気仙沼湾に向かって立つ「祈りの塔」と名付けられたモニュメントに手を合わせた。 市内の福祉施設が津波に襲われ、入所中だった祖母(当時94歳)を亡くした高橋正佳さん(43)=仙台市=は銘板を見ながら「10年経っても(祖母が亡くなった)現実感がない。私が母に怒られると間に入ってなだめてくれる優しい人だった。こうして祖母の名を見ると、改めて再会した気分。まちは新しくなり、昔の風景が消えて寂しさもあるが、この街の頑張っている姿を応援していきたい」と語った。 気仙沼市の菅原茂市長は「震災10年を経て、思いをはせることのできる場所がつくれた。追悼、伝承、再生に向けた場として、末永く受け継ぎ、防災に役立てていきたい」と話した。 13:00 「そばにはべりながら10年」 宮城県石巻市の災害公営(復興)住宅が立ち並ぶ地区の集会所では、僧侶や牧師ら宗教者による傾聴移動喫茶「カフェ・デ・モンク」が始まった。 震災後、仮設住宅や復興住宅を毎月のように回り、被災者の話を聞くことに徹してきた。集まった約30人を前に、金田諦應(たいおう)住職(64)が「皆さんのそばにはべりながら10年を過ごして参りました。次の10年もみんなで力を合わせて生きていきたいと思います」とあいさつした。 参加した山下忠幸さん(61)は「妻に楽しい場所と聞いて初めて参加しました。この日をお坊さんと過ごせるのは安心感があります」と話した。 拡大する災害公営(復興)住宅の入居者らの中に僧侶が入り、話に耳を傾けた=2021年3月11日午後1時14分、宮城県石巻市のぞみ野の新蛇田第一集会所、高橋昌宏撮影 13:00 「受験終わったよ、見守ってくれてありがとう」 雄勝湾に面した宮城県石巻市雄勝町の国道398号の道路脇で、仙台市太白区から祖父母や母と訪れた佐々木なつさん(15)は、持参したガーベラを1本ずつ海に投げ込んだ。雄勝町に住んでいた父方の祖父母、佐々木勝義さんと秀子さんは今も行方不明。2人ともお酒が好きだったから、缶ビールも海に注いだ。 震災当時5歳だったなつさんに、震災の記憶はあまりない。でも、小さい頃、勝義さんの船に乗せてもらったり、海で泳いだりして遊んだことは覚えている。 なつさんは4月から高校生になる。「記憶はないけど、思うことはいっぱいある。受験が終わったよ、お空から見守ってくれてありがとうと祈った」と話し、目を潤ませた。 拡大する海にガーベラやビールなどを流し、家族と手を合わせる佐々木なつさん(右から2人目)=2021年3月11日午後0時56分、宮城県石巻市、近藤咲子撮影 12:54 楽天選手ら試合前に黙禱 プロ野球オープン戦、東北楽天ゴールデンイーグルス―千葉ロッテマリーンズ戦が行われる静岡・草薙球場では、半旗がスコアボードの上に掲げられた。試合前、両チームの選手らがベンチ前に整列。球場に集まったファンと共に、1分間の黙禱(もくとう)を捧げた。 楽天の銀次選手は岩手県普代村出身で、当時からチームに所属する。「10年は一つの節目に過ぎない。自分は常に(被災地を)思って、野球をしているし、生活をしている。ちょっとしたプレーでも、全力の姿でもいいので、それを見て元気になってほしい」と話した。 試合前の練習では、楽天の監督、選手、スタッフら全員が「日本一の東北へ」と書かれた被災地へのチャリティーTシャツを着用した。 拡大する「日本一の東北へ」と書かれたTシャツを着て練習する東北楽天ゴールデンイーグルスの銀次内野手=2021年3月11日午前9時37分、静岡・草薙球場、室田賢撮影 12:00 「見せましょう」の嶋、被災地に心寄せ 「見せましょう、野球の底力を」 10年前、プロ野球東北楽天ゴールデンイーグルスの選手会長だった嶋基宏のスピーチは、多くの人の心を動かした。現在、ヤクルトスワローズの2軍で調整を続ける嶋は、埼玉・戸田球場での練習後に取材に応じた。 拡大する東日本大震災から10年となり、取材に答えるヤクルトの嶋=2021年3月11日午後0時5分、代表撮影 「海岸沿いが少しずつきれいになるなど、目で見える部分は復興してきていると思います。けど、遺族のみなさんが心に負った傷はなかなか癒えることはない。目に見える部分は復興していても、目にみえない部分はまだ復興することはできないんじゃないかな」と被災地に心を寄せた。 嶋は36歳になった。「スポーツは心を一つにしたり見ている人を感動させたり、周りにものすごい影響を与えることができるんだとこの10年で感じました。僕の野球人生も残り少ないと思いますが、少しでも、そういう風に感じてもらえるように、一日一日、一生懸命にプレーしたい」 […]
天皇陛下「被災地に心寄せ続けたい」おことば(全文)
東日本大震災から10年となった11日、国立劇場)(東京都千代田区)では政府主催の追悼式があり、天皇、皇后両陛下らが出席した。 天皇陛下の「おことば」は次のとおり。 東日本大震災から10年が経(た)ちました。ここに皆さんと共に、震災によって亡くなられた方々とそのご遺族に対し、深く哀悼の意を表します。 10年前の今日、東日本を襲った巨大地震とそれに伴う津波により、2万人を超す方が亡くなり、行方不明となりました。また、この地震に伴う津波や原子力発電所の事故により、多くの人々が避難生活を余儀なくされました。この震災の被害の大きさは、忘れることのできない記憶として、今なお脳裏から離れることはありません。 あれから10年、数多くの被災者が、想像を絶する大きな被害を受けながらも、共に助け合いながら、幾多の困難を乗り越えてきました。また、国や全国の地方自治体、160を超える国・地域や多数の国際機関、大勢のボランティアなど、国内外の多くの人々が様々な形で支援に力を尽くしてきました。 私も、皇后と共に、被災地を訪れてきましたが、関係者の努力と地域の人々の協力により、復興が進んできたことを感じています。これまで復興に向けて歩んできた多くの人々の尽力とたゆみない努力に深く敬意を表します。 一方で、被災地ではまだ様々な課題が残っていると思います。復興が進む中にあっても、新しく築かれた地域社会に新たに人と人とのつながりを培っていく上では課題も多いと聞きます。家族や友人など親しい人を亡くしたり、あるいは住まいや仕事を失い、地域の人々と離れ離れになったりするなど生活環境が一変し、苦労を重ねている人々のことを思うと心が痛みます。また、原子力発電所の事故の影響により、人々がいまだに自らの家に帰還できない地域や、帰還が始まったばかりの地域があり、農林水産業への風評被害の問題も残されています。高齢者や子供たちを含め、被災された方々の心の傷を癒やし、心身の健康を見守っていくことも大切であると感じます。 今後、困難な状況にある人々が、誰一人取り残されることなく、一日でも早く平穏な日常の暮らしを取り戻すことができるように、復興の歩みが着実に実を結んでいくよう、これからも私たち皆が心を合わせて、被災した地域の人々に末永く寄り添っていくことが大切であると思います。私も、皇后と共に、今後とも被災地の方々の声に耳を傾け、心を寄せ続けていきたいと思います。 先月にはマグニチュード7を超える地震が福島県沖で発生しました。被災された皆さんに心からのお見舞いを申し上げます。この地震は東日本大震災の余震と考えられており、このことからも、震災を過去のこととしてではなく、現在も続いていることとして捉えていく必要があると感じます。 我が国の歴史を振り返ると、巨大な自然災害は何度も発生しています。過去の災害に遭遇した人々が、後世の私たちに残した貴重な記録も各地に残されています。この度の大震災の大きな犠牲の下に学んだ教訓も、今後決して忘れることなく次の世代に語り継いでいくこと、そして、災害の経験と教訓を忘れず、常に災害に備えておくことは極めて大切なことだと考えます。そして、その教訓がいかされ、災害に強い国が築かれていくことを心から願っています。 今なお様々な困難を背負いながらも、その苦難を乗り越えようとたゆみない努力を続けている人々に思いを寄せ、安らかな日々が一日も早く戻ることを皆さんと共に願い、御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。(杉浦達朗、長谷文) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
Fukushima : que s’est-il passé il y a dix ans ?
Dans la ville de Rikuzentakata, le 20 mars 2011. HISASHI MURAYAMA POUR « LE MONDE » Du 11 mars 2011, on retient surtout le nom de Fukushima, ville et préfecture du centre du Japon, dont la centrale, installée près de la côte pacifique, est au cœur de la pire catastrophe nucléaire après celle […]
Dix ans après Fukushima, les évacués confrontés au dilemme du retour
Par Philippe Mesmer Publié le 11 mars 2021 à 06h04 – Mis à jour le 11 mars 2021 à 13h55 Réservé à nos abonnés ReportageSur les 80 000 personnes qui vivaient dans un rayon de 20 kilomètres autour de la centrale et qui avaient dû fuir lors de la catastrophe, 36 200 vivent […]
Dix ans après, l’impossible bilan de la catastrophe nucléaire de Fukushima
Par Nabil Wakim et Perrine Mouterde Publié le 11 mars 2021 à 05h00 – Mis à jour le 11 mars 2021 à 15h48 Réservé à nos abonnés DécryptagesUn comité de l’ONU estime qu’aucun décès ni cancer n’est, à ce jour, directement imputable aux radiations, dont les effets se feront sentir […]