武将加藤清正の築城以来約400年、人々の暮らしを見守ってきた熊本城は、2016年4月の熊本地震で天守の瓦や石垣が崩れ落ちるなどの被害を受けた。あれから5年。写真家の馬場道浩(みちはる)さん(61)=東京都=が桜の咲き誇る城を訪れた。「復興のシンボル」として修復が進む姿を撮り続けている。 「あぁ、きれいだ」 3月下旬。満開を少し過ぎ、花吹雪が舞う桜並木に馬場さんはカメラを向けた。マスク姿の花見客や、卒業式を終えて記念撮影に来たはかま姿の学生たちが行き交う。復旧が進む城の様々な表情を切り取る。地震による被災以来、22回目の撮影だった。 馬場さんが熊本城を撮り始めたのは14年。熊本市の観光PRパンフレットの制作などで毎年訪れた。「撮り続けるうちに、気がつけば魅了されていました」 16年4月。東京の自宅にいた馬場さんは、熊本地震を伝えるニュースで熊本城も大きな被害を受けたことを知る。復旧に向けた動きが始まった時、「いまの熊本城を記録しよう」と思い立った。城を管理する熊本市にかけあい、立ち入り規制がかかる復旧現場に足を運んだ。 瓦が崩落した天守。崩れ落ちそうな櫓(やぐら)を支えた「奇跡の一本石垣」が注目された「飯田丸五階櫓石垣」は、地震に打ちのめされた被災者を励ましているように思えた。 いまも城内は被災の傷痕が生々しい。崩れた石垣に埋もれた桜の木は地震から1年後の春にも花を咲かせたが、今年は枯れてしまったのか、花をつけなかった。そんな光景にも、馬場さんはカメラを向ける。 地震から3年余りで撮った写真は約3千枚。その中から70枚を選んで19年に写真集「K.J.2016▼2019 KUMAMOTO-JO」(玄光社)を刊行した。写真に添えたコピーライターの短文で、熊本城を「あなた」と呼び、手紙をつづるように仕上げた。 熊本城はこれまでも被災し、そ… 【5/11まで】デジタルコース(月額3,800円)が今なら2カ月間無料!詳しくはこちら Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
重症病床の使用率、「垂直に近い」上昇 大阪・吉村知事
大阪府の吉村洋文知事は、重症病床が急速に埋まっているとして、大阪府の独自基準「大阪モデル」の赤信号について「もう数日で発出することになる」との見通しを示した。 大阪モデルで非常事態を呼びかける赤信号は、府が確保する重症病床の使用率が70%を超えた際に点灯される。4日時点で府は224床を確保しており、重症患者の135人に対する使用率は60・3%。3月28日の31・7%から、1週間で倍近く増えた。吉村知事は記者団に「病床は右肩上がり、垂直に近い状態になっている。非常に厳しい状況だ」と危機感を示した。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「マスク会食」効果は? 専門家「やらないよりは…」
新型コロナウイルスの「まん延防止等重点措置」の適用が5日に始まった大阪府内では、飲食店での「マスク会食」が徹底される見通しだ。専門家は「マスクをしないよりマシ」とは言うものの、この対策だけで感染拡大を防げるかについては懐疑的だ。 重点措置では、飲食店に求める措置として、マスクを着用しない人の入店禁止などが想定されている。 吉村洋文・大阪府知事はさらに、店内でも着けたまま飲食する「マスク会食」の義務化を検討。耳から外さず、ひもを持って上げ下げして食事や会話をする方法を例示している。 専門家は会食中にマスクを着け… 【5/11まで】デジタルコース(月額3,800円)が今なら2カ月間無料!詳しくはこちら Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
【ライブ配信中】最終日迎えた聖徳太子1400回忌法要
今年は聖徳太子(厩戸皇子(うまやどのおうじ)、574~622)の1400回忌にあたる。100年に1度の節目、奈良の世界遺産・法隆寺では4月3、4、5日の日程で遠忌(おんき)法要が始まった。実は100年前の大正時代には、実業家の渋沢栄一(1840~1931)が1300年遠忌法要の実現に尽力していた。(岡田匠) 朝日新聞デジタルでは4月3~5日の法要の様子を、動画でライブ配信します。(電波の状況などにより、画像が乱れたり、配信が一時停止したりすることがあります。ご了承ください) 法隆寺は明治初期、政府が出した上知令で領地を没収され、寺を維持するのに苦労していた。1878(明治11)年に宝物を皇室に献納し、下賜(かし)された1万円で伽藍(がらん)や寺宝を守ってきた。1300年遠忌法要の実現には、財政支援が必要だった。そこで渋沢栄一が立ち上がった。今年のNHK大河ドラマの主人公でもある実業家だ。新1万円札の顔になることも決まっている。 渋沢は法要の3年前の1918(大正7)年、奉賛会をつくると、今の上皇さまの祖父の久邇宮(くにのみや)邦彦(くによし)を総裁に、紀伊徳川家15代当主の徳川頼倫(よりみち)を会長にたて、渋沢は副会長に就いた。18年5月17日付の東京朝日新聞には「聖徳太子千三百年遠忌 奉賛会設立さる」の記事が載り、徳川や渋沢の名前もある。 太子をたたえる歌も作られた。奉賛会は19年2月28日付の紙面に「聖徳太子讃歌懸賞募集」の広告も掲載。20年1月27日付の記事で「讃仰(さんぎょう)唱歌決定 来(きたる)三十日発表」と報じられている。 共に1万円札の肖像となる太子と渋沢 その縁とは 法隆寺の法要や、太子の墓がある叡福寺(えいふくじ)(大阪府太子町)の法要などの予算計45万円は寄付でまかなうことにした。21年4月2日付の紙面には「太子御遠忌に御下賜金(ごかしきん) 東宮殿下より」の記事も見える。当時は皇太子だった昭和天皇が法隆寺と奉賛会にそれぞれ500円を寄付したと伝えている。 法要は4月11~17日の1週間にわたった。皇室をはじめ、当時の原敬首相も参列した。参拝者は約26万人に上ったという。東京朝日新聞にエッセー「法隆寺詣で」が掲載され、「汽車の混雑には殆(ほと)んど閉口」「早旦(そうたん)五時に名古屋を出る汽車が忽(たちま)ち満員」「奈良に向(むか)う人の繁(しげ)さ」と描かれた。 奈良大学の東野(とうの)治之(はるゆき)名誉教授によると、国を挙げての法要になったのは、明治になって天皇中心の国づくりが進んだことが影響している。太子は外国の文化を採り入れるだけでなく、日本の文化も大事にし、天皇中心の政治を打ち立てたと当時は考えられた。 「太子が豪族ではなく、皇室の人物であることも大きい。信仰の対象としての太子から、歴史上の偉大な指導者として評価されるようになった」という。 渋沢もこうした流れの中にあった。太子は江戸時代、日本古来の神道を軽んじ、海外から伝わった仏教を重んじたと国学者や儒学者に非難された。渋沢も同じような考えだったようだが、その後、親交のある歴史学者や美術行政家に説得され、太子を慕うようになったという。 法隆寺にも1300年遠忌の機運に乗り、寺を興隆させたいという思いがあった。法要後の34(昭和9)年には、当時の文部省が法隆寺を国として守っていく法隆寺国宝保存事業部を設けた。 東野名誉教授は「1300年遠忌をきっかけに法隆寺はより一層、特別な寺になった。貴重な文化財があり、太子が建てた寺として、格別なあつかいを受けるようになった」と話す。 聖徳太子とは…仏教中心の国づくりと超人的な伝説 574年、奈良・飛鳥にある厩戸(うまやど)の前で生まれたとされる。蘇我馬子とともに推古天皇を支え、仏教中心の国づくりを進めた。十七条憲法を定め、法隆寺を建てた。仏教の経典を講義し、内容を解説した法華義疏(ほっけぎしょ)などを著した。622年2月22日に亡くなったと伝わる。その生涯は諸説ある。死後、聖徳太子を観音の化身と仰ぐ太子信仰が広まり、10人の話を一度に聞き分けたなど超人的な伝説も多く残る。旧1万円札の肖像画にも使われた。 100年前が国を挙げての法要なら、聖徳太子1400年遠忌の今年はコロナ禍での法要となる。法隆寺執事長の大野正法(しょうぼう)さん(68)は「多くの人にお参りに来てもらいたいが、大勢が集まれば密になる。しかも新型コロナの状況は先が見えず、翻弄(ほんろう)されてきた」と明かす。 今回の初日となる4月3日の旧暦が太子の命日の2月22日にあたることから、大野玄妙(げんみょう)・前管長が日程を決めた。だが、大野前管長は2019年10月に肺がんで急死。今の古谷正覚(しょうかく)管長が中心になって準備を進めたが、20年に入ると新型コロナウイルスが広まった。 コロナ禍の遠忌法要「僧侶たちの使命感」 法要の延期や参拝者を入れずに僧侶だけで営むことも考えた。一時、感染状況が落ち着いた昨年秋ごろ、予定通り実施することを決めた。「法隆寺の僧侶はみな、太子をたたえる法要をしっかりとやるんだという使命感を持っている」と話す。 法要では、7歳の太子の姿とされる太子七歳像と、南無仏舎利(なむぶっしゃり)をまつる。南無仏舎利は2歳の太子が東を向いて手を合わせ、南無仏と唱えると手のひらからこぼれ落ちた仏舎利(釈迦(しゃか)の遺骨)と伝わる。 3日は東院伽藍(がらん)から行列が出発し、太子七歳像と南無仏舎利を大講堂へ運んだ。5日までの期間中、太子ゆかりの寺や、東大寺や興福寺など奈良の大寺院の僧侶がお経を唱え、舞台では舞楽の奉納がある。コロナ対策として行列の規模を縮小したほか、参拝者の状況によっては入場を制限することもあるという。 大野さんは、今に生きる太子の教えとして、「和をもって貴しとなし」で始まる十七条憲法の和の精神を挙げる。「一人ひとりの存在を認め、差別もなく、争いのない平和な世界をつくる。そのためには自分のことだけでなく、相手の気持ちを尊重し、下の者の意見を聞き入れ、よく話し合う。太子の和の精神が今の世の中にも大切になる」と話す。 太子ゆかりの寺なども法要を予定している。 叡福寺は4月10日から5月11日に大法会を営む。「日本仏教の祖」「和国の教主」と称される太子をたたえ、華厳宗の東大寺、天台宗の延暦寺、高野山真言宗の金剛峯寺、浄土宗の知恩院、浄土真宗の西本願寺・東本願寺、日蓮宗など各宗派の僧侶が読経する。 太子の創建と伝わる四天王寺(大阪市)は2021年秋から来春にかけて遠忌法要を予定する。太子ゆかりの斑鳩寺(兵庫県太子町)は22年に営むという。 奈良県や斑鳩町など太子ゆかりの自治体は観光客を呼び込みたい考えだが、コロナ禍のため頭を悩ます。斑鳩町は3~4月に予定していたイベントの延期を決めた。県は21年度予算案に7350万円を計上し、リレー講座やウォークイベントを予定するが、積極的なPRができない。県文化資源活用課の酒元健司課長は「現場にきて本物に触れてもらいたいが、コロナ禍で難しい。悩みながら進めている」と話す。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
羊のベビーラッシュ「うるさいけど可愛い」 神戸の牧場
神戸市灘区の市立六甲山牧場で羊のベビーラッシュを迎えている。飼育されている「めん羊舎」に隣接する「ひつじのほいくえん」の中では、誕生した子羊が親羊の上に乗ったり、走り回ったりしている。 2月15日に1匹目が生まれ、今月5日までに雄24匹、雌18匹の計42匹が誕生した。 子羊との記念撮影を楽しんでいた大阪府寝屋川市の斎藤麻衣さん(26)は「小さくて毛がきれい。鳴き声もうるさいけど可愛い」と話した。 天気が良い日には、親羊たちと屋外に放牧される。問い合わせは牧場(078・891・0280)へ。(柴田悠貴) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
15年続けた小学校までの2300歩 「卒業」やめた
小学校まで2300歩。子どもたちと並んで歩くのが毎朝の日課になってから、15年ほどが過ぎた。 岐阜県下呂市の金山地区にある下原小学校区に住む加藤富美子さん(84)。朝7時17分、集まった7人に「おはよう」と声をかけ、歩き出す。ダムを横切り、川をさかのぼる。朝日に照らされ輝く水面、鳥のさえずり、道ばたに咲き始めた花……。季節を感じながら、子どもたちについていく。 「子どもたちと一緒にいるとね、なんとも言えない喜びをもらえるのね」 そう話す加藤さんには、見守りを続けるワケがある。 各地で交通事故が相次いだのを… 【5/11まで】デジタルコース(月額3,800円)が今なら2カ月間無料!詳しくはこちら Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
夜の繁華街でイノシシ猛進4キロ 曲がったフェンスの跡
山形市内で3月、1頭のイノシシが夜の繁華街など中心部を駆け抜け、最初の目撃から15分ほどで姿を消した。JR山形駅から目と鼻の先の場所もあり、相次ぐ通報に市や山形県警が捜したが、見つからなかった。 ◇ 山形市によると、3月17日午後10時15分ごろ、同市鉄砲町1丁目の山形西高校の西側で最初の目撃情報があった。その後、十日町、七日町、六日町と北東の方向に進んだとみられる。同30分ごろ、市立第五中学校の南側で目撃されたのを最後に、姿が見えなくなった。最初の目撃場所からは、4キロほど離れていた。 JR山形駅から約300メートルしか離れていない駐車場のフェンスは、イノシシがぶつかったとみられる衝撃で曲がっていた。近所の男性は「あとで聞いて驚いた」とびっくり。市環境課の担当者は「これだけの中心市街地で目撃されたのは初めて。けが人が出なくてよかった」と話す。 県内ではイノシシの捕獲頭数が年々増えている。2017年度は888頭だったが、18年度に1575頭、19年度には2002頭となった。同年度の推定生息数は約9200頭に上る。稲やブドウなどの農作物の被害が多く、作物を倒されたり、土が掘り返されて根が食べられたりした。 県は今年度から5年間の「第2期山形県イノシシ管理計画」を作り、対策を進めている。毎年3200~3700頭を捕獲して、25年度の推定生息数を約1万2200頭にして減少に転じさせるという目標を掲げる。計画には「市街地出没時における対応」という項目も設けており、パトロールや捕獲作業を挙げている。 野生動物の管理や生態に詳しい山形大農学部の江成広斗教授は「イノシシは繁殖力が強く、密度が高くなっているとみられる」と分析。ヤブ化した河川敷を移動することがあり、河川敷の適切な管理も必要だといい、「動物がパニックになり、人に当たれば危ない。農地への侵入を防ぐ電気柵を設置するなど、エサを与えない対策をしなければならない」と指摘する。(坂田達郎) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
橋を雑巾がけする人たち、月に1回集結 愛知でなぜ?
愛知県岡崎市の市街地を流れる乙(おと)川にかかる橋を、ぞうきんで拭く人たちがいる。どんな人たちが、いったいなぜ? 橋拭きは毎月第4土曜の午後5時から約1時間。3月は桜城橋(さくらのしろばし)に大人から子供まで約20人が集まった。橋は幅19メートルで歩行者用。路面や欄干が乙川上流の額田地区産のヒノキで覆われている。ぬれぞうきんを絞って、片方の欄干から反対側へ、学校の廊下掃除のように手をついて横切る。勢い余って転ぶ子も。モップで拭く大人もいる。 「ゴシゴシすると橋に愛着がわきますから」と、主宰者で市内在住の宮川洋一さん(50)は話す。県職員で、長く橋の建設や管理に関わってきた技術者。職員間の勉強会「あいち橋の会」の事務局を務める。 西三河建設事務所勤務だった時に、桜城橋の200メートルほど下流にある殿橋の補修工事に携わり、「昭和2(1927)年に造られた橋が現役で残っているのはすごい。みんなにも知ってもらうために何かしたかった」。他県で橋を拭いている事例を知り、2019年夏に殿橋の欄干などを拭いてみた。 昨年3月に開通した桜城橋は車が通らないので拭き作業がしやすい。9月からSNSで参加者を募り、月1回の橋拭きを始めた。ぞうきん持参でやってくる人が少しずつ増え、橋に使ったヒノキ産地の額田地区からの参加もある。 きれいに汚れを拭き取るというより、ワイワイとイベントを楽しむ雰囲気。作業後に宮川さんが橋のうんちくを語ったり、橋から月を観賞したりする。「負担になってはいけないので、できる範囲でやっていきたい」と宮川さん。息の長い活動にして、いつか長さ121・5メートルの橋に参加者がずらりと並んで一斉にぞうきんをかける光景を夢見ている。(松本行弘) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
準備なしで「あちこちオードリー」 佐久間Pが見た2人
「事前アンケート無し、打ち合わせ無しのフリートーク」というコンセプトで熱い支持を集めている「あちこちオードリー~春日の店あいてますよ?~」(東京系)が一部地域での深夜帯から、今春、水曜夜11時台に進出し、放送時間も50分に拡大した。MCのオードリーが引き出す芸能人の「ここでしか聞けない本音」が人気の理由だが、佐久間宣行プロデューサーは「実はゲストだけが言いっ放しの番組じゃないんです」と語る。 番組は2019年8月に特番として始まり、同10月からレギュラー化された。企画が誕生した背景には、二つの番組の存在があった。 一つはMCのオードリー若林正恭がゲストの作家とトークを繰り広げる「ご本、出しときますね?」(16年、BSテレ東)だ。佐久間さんは「若林君は、ちょっと前は『人見知り芸人』とか言われていたんですけど、今は全然違って、人に対する興味が出てきていて、色んな人から話を聞き出すインタビュー能力がすごいな、インタビューの組み立て方が素晴らしいなと思った」という。 もう一つは「オードリーのオールナイトニッポン」(ニッポン放送)で、「ゲストと一緒に少人数で盛り上がるオードリーがすごく面白いと改めて思った」。 「事前アンケート無し」にした理由については、「アンケートがあって話す内容が分かっている収録に、僕がちょっと飽きちゃった」と明かす。「若林君と春日の価値観や興味があることを番組制作者の意図よりも先に出したいなと思ったので、フリートークにしてみました」 もう一つの理由として、「ゲストが『この話をすればいいや』と思っているよりも、何も準備しないで話し始めたときのほうが面白いことを話してくれるんじゃないかと思った」と語る。狙いは的中し、ゲストから聞いたことの無い話が次々と出てきて驚いたという。 番組には毎回、2組ほどのゲストが招かれる。これまでに登場したのは、雨上がり決死隊の蛍原徹、アンジャッシュの児嶋一哉、ハライチといった芸人から、佐藤栞里や藤田ニコルといったモデル・タレント、アイドルグループの日向坂46やヒップホップユニットのCreepy Nutsまでと幅広い。 ゲストとして声をかけるのは、「キャリアに浮き沈みがあって、心の中で考えていることが大きそうな人」や、「プロフェッショナルとしてたくさん仕事をしているけど、ポロッと裸の言葉を話す場所がなかなか無いんじゃないかなという人」だ。中でも一番大事にしているのが「オードリーが話を聞いてみたいと思う人であること」だという。 ゲストはオードリーとの軽快なトークの中で、芸能界での悩みや怒り、仕事術や野望などを赤裸々に語る。パンサーの向井慧は、無理なキャラを演じるように持ちかけてきたある番組のスタッフなど、許せない人物の名前をノートに記録していることを告白。藤田ニコルは、好きでやっていた決めポーズの「にこるんビーム」をある番組の台本に指示として書かれてから「テレビが怖くなっちゃった」と打ち明けた。 記事の後半では、オードリーがゲストの本音を引き出すのが上手な「ある理由」や、特に印象に残っている回、番組の今後について、佐久間プロデューサーが語ります。 ゲストが胸の内をさらけ出して… 【5/11まで】デジタルコース(月額3,800円)が今なら2カ月間無料!詳しくはこちら Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「感染広げては…」天皇陛下も自ら提案 令和式で新風景
「年の始めに~同じく~『実(じつ)』~ということを仰せごとによりて、詠める歌」 3月26日、皇居・宮殿。天皇、皇后両陛下の正面に座った講師(こうじ)が発する伝統の言い回しが響き渡り、約750年の歴史がある「歌会始の儀」が始まりました。本来、新年行事として1月に行いますが、今年はコロナ禍で延期されました。コロナ禍は皇室にも様々な影響を及ぼしていて、今年の歌会始の儀は例年と違ったものとなりました。 人々が集まって共通の題で歌を詠み、それを披講する「歌会」は日本古来の伝統文化で、奈良時代にはすでに行われていたことが万葉集で確認できます。宮内庁によると、歌会始の儀の起源は、鎌倉時代までさかのぼるとされています。 文永4(1267)年1月15日に、天皇が催す年始の歌会「歌御会始(うたごかいはじめ)」が行われたという記録があるそうです。歌御会始は江戸時代以降はほぼ毎年行われ、明治12(1879)年からは国民の詠進歌も披講されるようになり、現在まで続く歌会始の儀のスタイルが確立されました。 お題も変化していきました。大正11(1922)年の「旭光照波」のように、かつては難しいものもありましたが、終戦後は広く作品を募れるように、お題は漢字一文字など簡単なものになりました。 両陛下、300キロ以上離れた参加者に会釈 今年のお題は「実」。皇族方や入選者は「実り」「実験」「実習」など、様々な「実」を含んだ歌を寄せました。 コロナ禍での開催となった令和3年の歌会始の儀。特別だったことは、大きく分けて二つあります。ひとつは歴史上で確認できる範囲では初めて1月に行われなかったこと(中止はあります)。もうひとつはその伝統様式にも大きな変化があったことです。 写真をみるとわかるように、皇族方、職員、入選者ら出席者は全員マスクを着用。歌を詠み上げる講師ら声を出す6人はフェースシールドを着け、席には飛沫(ひまつ)防止のためのアクリル板が置かれました。6人と、その控えの人たちは事前にPCR検査も受けて儀式に臨みました。 出席者の人数も、大幅に絞られています。 例年は、「陪聴者」として政府関係者ら約100人が招かれますが、今年はなんと3人に。宮内庁関係者によると、天皇陛下は「皇室行事であっても、感染を広げるようなことはあってはいけない」と考えており、万全の感染症対策がとられました。 そして、最も特徴的だったのは、緊張の面持ちで座る入選者たちの間に、1台のモニターが置かれていたことです。10人の入選者のうち、福井県の女性は本人の希望でオンラインで参加しました。 モニターはほかの入選者の顔の位置と同じ高さになるよう調整され、福井県小浜市のホテルでカメラと向かい合っている女性の顔が映し出されていました。両陛下は、歌が詠まれる入選者ひとりひとりと目を合わせて会釈していましたが、モニター越しに、300キロ以上離れたこの女性とも目を合わせていた姿は、令和ならではの光景でした。 歌会始の儀の後、拝謁(はいえつ)もオンラインで行われました。側近は「画面越しであっても、顔を見てお話ができて良かったと思われているのでは」と両陛下の感想を語り、伝統行事に取り入れた新たな試みに手応えを感じているようでした。 宮内庁関係者によると、1月の緊急事態宣言発令によって中止が検討された時も、オンライン開催を陛下自ら提案したそうです。コロナ禍で活動は制限されながらも、「国民に寄り添う」という陛下の強い思いが現れた行事だったと感じました。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル