【兵庫】出かけた先で大きなクスノキを見ると、あの夏を思い出す。わずかな期間でほかにないほど打ち解けた友人が、突然亡くなった1985年8月。西宮市の海清寺であった葬儀で見上げたクスノキは、友人を思い起こさせた。12日、520人が犠牲になった日航機墜落事故から36年を迎える。 とにかく暑い夏だったと振り返るのは、堺市で木材会社を営む中川勝弘さん(73)。当時は30代半ば。知人や親類の葬儀が続き、「もうないだろう」と1着しかない喪服をクリーニングに出した直後に、友の訃報(ふほう)に接した。ベージュのスーツに黒の腕章をして参列したことを覚えている。 葬儀が執り行われた海清寺のクスノキは、寺ができた1394(応永元)年に植えられたと伝えられる樹齢約630年の巨木だ。高さ約35メートルで、県が天然記念物に指定している。建物に囲まれながらも、ひときわ存在感を放っている。 神戸市内の大学に通っていた学生時代にも何度も目にしていたが、意識したのは葬儀の時が初めてだった。ふと見上げて、背の低い自分と、いつも見上げていた友人が並んでいるような、そんな気分になった。 ◇ 大阪青年会議所の活動でその友人と知り合ったのは、墜落事故の約7カ月前。1985年の1月だった。年齢も近く、会議所が関わる留学生の弁論大会の準備で週に2、3回の頻度で会って話をし、すぐに打ち解けた。木材会社で最初に作った木製の名刺の商品に友人は興味を示してくれた。「自社製品にも使えないものか」とビジネスの話題でも盛り上がった。 中川さんの身長は158センチ。背の低さがコンプレックスだった。大企業に勤めるスマートで身長差がある友人を、いつも憧れの気持ち交じりに見上げていた。「何でこんな僕に親切にしてくれるんや」。対等な態度で接してくれることがうれしく、不思議だった。自分に自信がなかったから、よけいにそう思った。 墜落事故の発生を知ったとき、関西に向かう飛行機だったため、知り合いが乗っているんじゃないかと胸騒ぎがした。テレビで乗客名簿が流れ、その中に友人と同じ名前があった。間違いであってほしいと願った。知人に連絡して確認し、しばらくして、青年会議所から葬儀の連絡が届いた。 ◇ 木材会社経営という仕事柄、中川さんは趣味を兼ねて全国の巨木をめぐり、会社のホームページで紹介している。クスノキは大きく育つため、取り上げる機会も多い。それでも、海清寺のクスノキは中川さんにとって特別な存在だ。「友人はここから違う世界に旅立った。だから戻るならここだろう」。クスノキはその目印になる木だと思っている。(松永和彦) ◇ 〈日航機墜落事故〉 1985年8月12日、羽田空港を離陸した大阪(伊丹)空港行きの日航123便が群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落。乗客乗員520人が死亡した。国の航空事故調査委員会の報告書は、ボーイング社が78年に行った圧力隔壁の修理ミスが事故につながったとした。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
築100年超 名古屋城そばの赤れんが塀、撤去へ
村上潤治2021年8月11日 11時30分 名古屋城そばのホテルナゴヤキャッスル(名古屋市西区)の建て替えに伴い、約100年前につくられた赤れんが塀が、今月撤去される。空襲で焼けた城を間近で見た時代の証人でもある。住民は名残を惜しんでいる。 塀は、城の西北隅櫓(せいほくすみやぐら)の西約90メートルにある。高さ約4メートル、全長約40メートル。「イギリス積み」という手法で赤れんがが約50段積んである。 「写真図説 明治・名古屋の顔」(六法出版社)によると、同ホテルの土地にもともと立っていた病院が1913(大正2)年に火災で全焼。再建に合わせて塀がつくられたという。国の重要文化財で22(大正11)年に完成した現在の市政資料館(東区)より古いとみられる。 れんがの歴史に詳しい水野信太郎・北翔大名誉教授(建築史)に塀の写真を見てもらうと、「れんがはよく焼けており、大規模な窯で高温で大量に焼かれた」と推測する。愛知県産れんがが全国に影響を及ぼした時期があり、「市政資料館と同じれんがの系譜を感じる」。 塀を所有する同ホテルは69年の開業。城を望む好立地で、世界の要人らを迎えてきた。建て替えに伴い、運営会社側は塀の保存も検討したが、耐震性などから撤去を決めた。 近くに住む豊田貞男さん(85)は「れんが塀は重厚であり、人を和ませてきた。小さなモニュメントなどで残してほしい」。親族が職人から終戦直後に聞いた話では、一つひとつ紙に包んだれんがを手作業で積み上げたという。 歴史建築の保存・記録に取り組む「明治建築研究会」の柴田正己代表は「関東大震災(1923年)で多くのれんが建築が崩壊した。この塀のように現存しているものは貴重だ」と話している。(村上潤治) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
76年前、洪水からの脱出劇 元教師と教え子が涙の再会
終戦直後の1945年10月、京都府舞鶴市内の寺に疎開していた小学生たちと引率教師が洪水に襲われ、かろうじて脱出した。その日のことは紙芝居になり、各地で上演されている。7月にあった上演会には、96歳になる教師と教え子らが出席。当時を振り返った。 洪水に遭ったのは、現在の市立明倫小学校の3~6年生46人と、当時20歳の新任訓導(今の教諭)で、子どもたちを引率した荒木花子さん。 荒木さんらは終戦間際の45年8月から、同市桑飼上の由良川沿いにある荘厳寺に疎開していた。米軍の空襲から逃れるためだ。だが戦争が終わっても、混乱状態が続き、すぐには家に帰れなかった。 洪水が起きたのは、家族に会えない寂しい生活が続いていた10月7日。大雨の影響で由良川が氾濫(はんらん)し、寺の境内に水が押し寄せてきたのだ。 「子どもらが濁流に落ちたら、私も生きていられない」 子どもたちは寺の2階に逃れ… この記事は有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。 残り:675文字/全文:1070文字 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
イサム・ノグチと住職の不思議なご縁 寺に灯るあかり
【動画】世界的彫刻家イサム・ノグチと住職との不思議なご縁 寺を灯す「あかり」=湯川うらら撮影 20世紀を代表する彫刻家のイサム・ノグチ(1904~88)は、晩年に香川県の「石の町」にアトリエを構えた。日米を行き来しながら、生涯をかけて石の彫刻を追究したノグチが、死の直前まで20年以上、折に触れて訪れた寺がアトリエ近くにある。 「世界的彫刻家」と「寺の住職」の知られざる交流。異なる経験、環境で生きてきた2人の「ご縁」を通じて、世界的彫刻家の一面が見えてくる。 当時の住職は高齢で直接の取材はできなかったが、寺に残された写真や住職の講演を収録した1時間余りのカセットテープ、関係者への取材を通じて足跡をたどると、特定の宗教を持たなかったノグチが、住職にある願いを託したこともわかった。 イサム・ノグチ=1970年 記者は6月、香川県東部の小さな寺を訪ねた。瀬戸内海の潮風を感じながら、正門をくぐる。庭の奥に続く石畳を進むと、本堂がある。本尊の周りでひときわ存在感を放つのは、天井から釣り下がった直径約1・2メートルの球体の照明だ。和紙を透かした柔らかい光が、周囲を優しく照らす。 和紙と竹からなる照明器具「AKARI(あかり)」。ノグチが1951年に、岐阜県の伝統的工芸品「岐阜提灯(ちょうちん)」から発想を得て制作を始めた「光の彫刻」だ。 「和紙を透かしてくる明かりは、ほどよく光を分散させて部屋全体に柔らかい光を流してくれる。『AKARI』は光そのものが彫刻であり、影のない彫刻作品なのです」 「あかり」を唯一生産する岐阜提灯の老舗「オゼキ」のホームページでは、ノグチの言葉がこう紹介されている。 本堂の「あかり」は、200種類以上あるシリーズの初期の作品だ。四角柱や鏡餅状、楕円(だえん)形などの多種多様な「あかり」が、応接間や玄関などに計17点ある。ノグチの助言で設置したものもあり、大切に手入れされながら寺を照らし続けている。 本堂にともるイサム・ノグチの二つの「あかり」=香川県さぬき市志度、湯川うらら撮影 寺の応接間を長年照らしてきたイサム・ノグチの「あかり」。1952年ごろに制作された=香川県さぬき市志度、湯川うらら撮影 ノグチがたびたび訪れていたこの寺は、400年以上前に建立された真言宗の「法性山(ほっしょうざん)普門院金剛寺」(香川県さぬき市志度)。地元では「普門院」として親しまれている。 良質な花崗岩(かこうがん)・庵治石の産地で、ノグチが69年にアトリエを構えた高松市牟礼町(旧香川県牟礼町)の隣町にある。四国霊場第八十六番札所・志度寺にも近く、「お遍路さん」もたびたび訪れる。 ノグチが交流を深めたのは、24歳年下の普門院の前住職、岡田泰弘さん(93)だ。彫刻家と住職。経歴も年齢も違う2人だが、それぞれの経験や生き方、作品について語り合い、互いを尊敬し合っていたという。 普門院の応接間には、87年に撮影された2人の写真が飾ってある。写真のノグチは、岡田さんに体を向けて話しかけ、岡田さんは手を組んでノグチの言葉に耳を傾けている。2人の関係性がうかがえる光景だ。 イサム・ノグチが折に触れて訪れた「普門院」の応接間に飾られている写真。ノグチは、岡田さんに体を向けて話しかけ、岡田さんは手を組んでノグチの言葉に耳を傾けている=香川県さぬき市志度、湯川うらら撮影 2人の初めての出会いは、6… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
目の前にいたオヤジは死んでいた 偽書類に最期まで信念
中学3年のときだった。高校受験のために戸籍謄本を取り寄せると、父親欄に「×」印が入っていることに気づいた。 「うん? 当のオヤジは目の前でたばこを片手に机に向かっているぞ」 母にこっそり尋ねた。「あの人、いろいろあって、死んでるのさ」。そんな返事に目を丸くした。 父は過去に自分の戸籍を消していた。だが、税金を納め、選挙で投票もしていた。 いったい、どういうことなのか。 役場から「火葬証明か埋葬証明を送れ」 山田繁彦さん(80)=山梨県甲斐市=の父、多賀市(たかいち、本名・多嘉市)さんが戸籍を消そうとしたのは1943年、35歳のとき。太平洋戦争のさなかだった。 多賀市さんは農民解放の運動に身を投じた後、作家として活動していた。旧知の医師に「小説を書く資料につかう」と言い、白紙の死亡診断書をもらった。そして、こう書き込んだ。 死者:山田多嘉市 死因:肺結核 死亡年月日:昭和十八年四月五日 診断した主治医も架空の名前。診断書の偽造だった。筆跡を隠そうと、利き手ではない左手で書き、故郷の長野県三田村役場(現在の安曇野市)へ送った。妻にも友人にも内緒だった。 1週間後、役場から「火葬証明か埋葬証明を送れ」とはがきが届く。 妻は首をかしげていたが、運を天にまかせ、放っておいた。結局、戦地へ行かず終戦を迎えた。 留置場の中で思いついた大胆な手口 オノで自ら指を切断したり、絶食して検査に臨んだり…。徴兵を拒む行為は少なくありませんでした。 当時、日本には「国民皆兵」… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「念願」だった対ソ開戦 東京に送られた至急報のなぞ
中国東北部の満州。1941年8月2日の深夜、そこに駐屯する日本陸軍の関東軍から、東京・参謀本部に至急報が入った。 ソ連軍が満州の東部国境の一帯で突然、無線を止めたという。 「スワ、極東ソ連軍に変状が起きた」と、大本営陸軍部の戦争指導班員だった種村佐孝(すけたか)は、著書「大本営機密日誌」(初版1952年)に記した。情報が本当なら、ソ連が満州へ攻め込んでくる前兆かもしれなかった。 第2次世界大戦のヨーロッパ戦線で、独ソ戦が始まって1カ月余り。日本もドイツにあわせて、ソ連へ攻め込むべきだという北進論が、陸軍内で勢いを増していた。 満州では、通常の装備だった関東軍を臨戦態勢にするため、演習を装って80万人もの兵士を集める「関東軍特種演習」(関特演)が、最盛期を迎えていた。一方、海軍はインドシナ半島などへの南進を主張し、参謀本部はまさに決断の瞬間にいた。 ソ連はドイツ軍にモスクワの手前まで攻め込まれていたが、極東の兵力は期待したほどには減ったように見えず、対ソ開戦が断念に傾きかけた矢先だった。こちらの意図を察したソ連が先手を打ってくるのではという情報に、緊張は一気に高まった。「真夜中というに、参謀本部の窓々は、こうこうと輝き、あわただしい人の動きでざわめいた」と、機密日誌はその様子を伝える。 この件で「主役」とされる関東軍参謀の肉声が残っていた。軍事史研究を専門とするアメリカ人歴史家、故アルビン・クックス博士による戦後のインタビュー音源だ。 「これを調べると、デリンジャー現象だということが分かった」 東京に送られた「無線封止」の狙いは。記事の後半では、「熟れた柿」が落ちるのを待つ関東軍が描かれます。 【テーマ動画】砂上の国家 満州のスパイ戦 「しかし無線封止って問題は… この記事は有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。 残り:1951文字/全文:2630文字 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
大田司令官の自死「貧困のどん底」 海を渡った娘の願い
76年前の1945年6月、沖縄の地下に掘られた洞穴で、一人の軍人が自ら命を絶った。「沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ」との電文を発した海軍司令官の大田実海軍中将。広島県呉市にいた家族には戦後の人生が遺(のこ)された。故人への思いを抱えながら、子や孫がそれぞれの道でめざした「平和」とは何だったのか。 ニュージーランドの首都ウェリントンの教会で今年5月26日、ある女性の葬儀が営まれた。日本出身のオーモンドソン大田昭子さん。90歳だった。 沖縄県民斯ク戦ヘリ 遺された戦後 大田中将一家 それぞれの道 若い頃を過ごした広島県呉市でニュージーランド人の男性と出会い、1953年に結婚。南半球に渡った。日本大使館で長年働き、日本文化や日本語を伝え、親善に尽くした。葬儀を取り仕切る牧師がその人生を紹介し、こう言った。 「ピース・メーカー(平和の作り手)だった」 葬儀で、思い出の写真が映し出された。その中に、昭子さんが現在の中学生にあたる女学生だった頃、両親と9人のきょうだいと写ったものがあった。セーラー服姿の昭子さんは後列の右側で少し首をかしげて収まっている。軍服を着て真ん中に座るのは、父大田実氏だ。 夫や3人の子どもと写真に写るオーモンドソン大田昭子さん=ピーター・サザ-ランドさん提供 葬儀の最後に、日本語の歌が響いた。「ふるさと」「赤とんぼ」。そして、もう1曲。 ♪古いアルバムめくり…… 沖縄ゆかりの「涙(なだ)そうそう」だった。 自死した大田実海軍中将の娘、昭子さんは戦後、ニュージーランド人の男性と出会い海を渡りました。太平洋戦争の記憶がまだ生々しい時代、現地の人から心ない言葉を浴びせられても「平和」への思いを持ち続けました。 昭子さんの三男ピーター・サ… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
大阪・西成に「ガチ」の先生がいた 差別・貧困の中で
「かば先生」(右)が転校生の良太を紹介する場面=(C)映画「かば」製作委員会 1985年の大阪・西成。差別や貧困の中で生き方を模索する子どもたちと、その姿に寄り添い続けた教師がいた。当時の実話を元に7年がかりで完成した映画「かば」が、大阪や京都で近く公開される。 舞台は85年の夏、大阪市西成区の公立中学校。被差別部落の子、在日コリアンの子、沖縄にルーツをもつ子が多いこの学校に赴任した新人女性教師は、やんちゃな生徒たちに相手にされずに悩む。先輩の「かば先生」も「昔、俺の先輩がな、子どものことわかってると思ったらもう教師は終わりや言うてたわ」と慰めつつ、自らも生徒たち、親たちに正面から向き合う毎日を送っていた――。 野球部の指導で生徒たちの心をつかんだ新人教師の加藤先生=(C)映画「かば」製作委員会 亡くなった蒲先生がモデル 「どんな子も受け入れた」 「かば先生」にはモデルがいる。在職中の2010年に58歳で病死した蒲(かば)益男さんだ。岐阜県出身で早くに父親を亡くし、弟たちの親代わりをしつつ苦学して中学校教師になった。映画の舞台の中学校には1982年から6年間勤め、通夜・葬儀には教え子ら約750人が訪れたという。 蒲益男さん=(C)映画「かば」製作委員会 同僚教師だった古川正博さん(67)は、「親に見捨てられた」と言って施設を抜け出した蒲さんのクラスの女子生徒を捜しに、一緒に夜の街を歩き回ったことが忘れられない。「蒲はどんな子でも受け入れる、あったかく優しい人だった」 映画のエピソードには古川さんらの実体験も反映されている。同級生にリンチされた在日の生徒の自宅を、かば先生が訪れる場面。生徒の部屋に入ろうとして親族に階段から突き落とされ、玄関に倒れ込むが、これは古川さんの体験の一部が元になった。 「かば先生」のモデルは、亡くなった蒲益男さん一人だけではなかった。生徒の祖父に怒鳴られ土下座した。被差別経験を生徒から打ち明けられた――。記事後半では、子どもや親から「本気」を試された日々を、教師たちが振り返ります。 ■「若い教師に、在日のことわ… この記事は会員記事です。無料会員になると月5本までお読みいただけます。 残り:1099文字/全文:1775文字 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
小田急刺傷、容疑者「殺せず悔しい」 謝罪の言葉はなし
2021年8月11日 12時50分 東京都内を走る小田急線車内で6日に起きた刺傷事件で、殺人未遂容疑で逮捕された対馬悠介容疑者(36)=川崎市多摩区=が、警視庁の調べに「殺せず悔しかった」「逃げ惑う姿を見て満足した」と話していることが捜査関係者への取材でわかった。警視庁はこうした供述などから、殺意があったとみて調べている。 捜査関係者によると、対馬容疑者は淡々と調べに応じ、事件への関与を全面的に認めている。「大学時代から女性に馬鹿にされており、華やかな女性や一緒にいる男性の首を切りたいと思うようになった。大量殺人を前から考えていた」「残念だが、逃げる乗客の姿を見て満足している」などと話し、被害者への謝罪の言葉はないという。 対馬容疑者は事件直前、東京都新宿区の店舗で食料品を万引きしたとして警察に通報されていた。捜査関係者によると、逮捕後の調べに、この日の万引きについて「金を使いたくなかった」と説明。新宿を訪れた理由を「過去に万引きした本の転売のためだった」と常習性をうかがわせる話をし、発覚に不満を持ったとの趣旨の供述もしているという。警視庁は容疑者宅の捜索を続けるとともに経済状況など生活実態を調べる。 対馬容疑者の逮捕容疑は、6日夜、東京都世田谷区の成城学園前―祖師ケ谷大蔵間を走る快速急行の車内で、20代の女子大学生の胸や背中を包丁で刺して殺害しようとしたというもの。女子大学生は重傷を負った。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
お盆は広範囲で大雨か 梅雨末期に類似「計画に余裕を」
山岸玲2021年8月11日 13時39分 気象庁は11日、来週にかけて日本付近に前線が停滞し、広い範囲で大雨になる恐れがあるとして警戒を呼びかけた。九州では11日夜から、東日本や北日本でも13日以降、警戒が必要で、こまめに最新の気象情報を確認するよう求めている。お盆期間に交通網が乱れる可能性もある。 気象庁によると、11日夜時点で、前線が中国大陸から九州北部、四国にかけて延びる予想。その後はさらに東へ延び、長期間停滞する見通し。前線に向かって南から湿った空気が流れ込み続けて前線の活動が活発な状態が続く見込みだ。毎年のように災害が発生している梅雨末期に似た状況だという。 九州では11日夜から警報級の大雨となる可能性が高い。今月は台風9号と10号などの大雨で地盤が緩んでいる地域もあり、土砂災害への厳重な警戒が必要だという。13日以降は北日本や東日本も含めて広い範囲で大雨となる可能性がある。こうした状況は来週にかけて続きそうだ。 12日正午までの24時間雨量の予想は多いところで、九州北部200ミリ▽九州南部180ミリ▽四国120ミリなど。その後の24時間では、九州北部200~300ミリ▽九州南部と中国、東海100~200ミリ▽四国と近畿、北陸100~150ミリ。 前線の長期間の停滞による大雨は、真夏の8月に起きることも珍しくはない。2014年8月も記録的な大雨となり、広島市では積乱雲が同じ場所に次々と流れ込む「線状降水帯」による集中豪雨が発生。土砂災害が多発し、死者77人を出した。 気象庁予報課の岸本賢司・主任予報官は報道陣の取材に「交通網が大きく乱れる可能性もある。余裕を持った移動や帰省の計画を立て、いつも以上にこまめに最新の気象状況を確認してほしい。いつでも予定を変更できるようにしておくことも重要」と話した。(山岸玲) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル