2021年12月25日 21時31分 【動画】映像から振り返る2021年 後半編は五輪の光と影・二刀流の活躍・衝撃が走ったあの事件… 新型コロナウイルスの先行きが見えない中、幕を開けた2021年。 10年の節目を迎えた東日本大震災の被災地で、それぞれの葛藤を抱えながら新社会人として一歩を踏み出した若者たち、肉親を新型コロナで亡くし、対面での弔いを決断した家族、そして、賛否渦巻く中で開催された東京五輪・パラリンピック――。 多くの人々が悩み、答えを求め続けた1年を、前編と後編に分け、映像で振り返ります。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
線路と道路を走るDMV、「世界初」の運行スタート 徳島~高知間
線路と道路の両方を走るDMV(デュアル・モード・ビークル)の営業運行が25日、徳島県南部と高知県東部の16・1キロを結んで始まった。両県などが出資する第三セクターの阿佐(あさ)海岸鉄道(本社・徳島県海陽町)が運行する。同社によると、本格的な営業運行は世界でも初めてだという。 マイクロバスを改造した車両の前後には、鉄輪が1ペアずつ格納されている。線路を走る時は鉄輪をレールに下ろし、前のゴムタイヤは浮いた状態に。後ろのゴムタイヤが駆動輪となり、鉄輪と合わせて6輪で走行する。「バスモード」から「鉄道モード」への「モードチェンジ」は15秒ほどで、座席数18で旅客定員は21人。 鉄道区間は、従来はディーゼル車が走っていた阿波海南(海陽町)―甲浦(かんのうら)(高知県東洋町)の10キロで他はバス区間。16・1キロを毎日往復し、土日祝日は室戸岬(高知県室戸市)まで54キロの1往復が加わる。 この日は、始発バス停の「阿波海南文化村」(海陽町)前で発進式があり、乗客18人が乗り込んだ初便が午後0時36分に出発。初便に乗った兵庫県西宮市の会社員中原子龍さん(25)は「車内は完全にバスで、窓の外は線路というギャップに驚いた。世界でここでしか味わえないというのが一番いいところだと思う」と話した。 鉄道、道路両用車の開発は… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
飯塚繁雄さんをしのぶ 体調崩してもトランプ氏らとの面会に尽力
北朝鮮に拉致された田口八重子さんの兄で、18日に83歳で亡くなった飯塚繁雄さんについて、田口さんの長男の飯塚耕一郎さん(44)が25日、東京都内で記者会見した。繁雄さんについて「八重子さんと会わせることができなかったのが心残り」と語った。 繁雄さんは2007年に拉致被害者家族会の代表に就任。今年12月に横田拓也さん(53)に引き継ぐまで14年間務めた。4年ほど前から体調を崩し、集会や記者会見の途中退席が増えた。トランプ米大統領と17年に東京の迎賓館で面会した際も「直前まで控室で横になっていた」という。しかし「責任感が強く、要人と会う機会は無理をしても出席することが多かった」と耕一郎さんは振り返る。 「仕事をしないと拉致問題のことばかり考えてしまう」と言い、工場関係の仕事を今年10月まで続けた。 11月13日に拉致問題の集会に出席した後、18日に入院。間質性肺炎のため酸素マスクをつけ、会話が困難な状況となると、病床で紙に「家族会 横田拓也」と書いた。見舞いに来た耕一郎さんから「拓也さんに代表をまかせたいということ?」と聞かれると、うなずいたという。紙には「八重子」とも書き、拉致された妹を最後まで気にかけていたという。(編集委員・北野隆一) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
暴風雪に警戒呼びかけ 28日ごろまで大雪、24時間で90㎝予想も
2021年12月25日 20時15分 上空に強い寒気が流れ込み、強い冬型の気圧配置が続く影響で、北日本から西日本の日本海側を中心に26日は大雪になる見通しだ。大雪は28日ごろまで続き、気象庁は暴風雪、高波にも警戒を呼びかけている。 26日午後6時までの24時間に予想される降雪量は、いずれも多いところで、北陸90センチ▽東北70センチ▽関東甲信、近畿、中国60センチ▽北海道50センチ▽東海30センチ▽九州北部10センチ▽四国5センチ。27日午後6時までの24時間では、北陸70~90センチ▽近畿60~80センチ▽東北、関東甲信50~70センチとなる見通し。 日本航空は25日、北海道や新潟県を26日に発着する22便を欠航すると発表した。また、NEXCO東日本は、新潟県内の関越道堀之内インターチェンジ(IC)と大和スマートICを26日午後3時から閉鎖する。解除は27日午前の予定だが、最新の気象情報を踏まえて判断するという。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
コロナ2年、「敗北」後にめざす社会は? かぜになるのは10年後か
新型コロナウイルス感染症が確認されて2年。流行は繰り返され、また新たな変異ウイルスの脅威が増している。このウイルスは、私たちの生活にどんな変化をもたらし、今後どうなっていくのか。人類と感染症の歴史に詳しい、長崎大熱帯医学研究所の山本太郎教授(57)に聞いた。 ――2億7千万人を超す新型コロナの感染者が、世界で確認されています。 人の活動域が広がり、野生動物のテリトリーにずかずかと入り込む機会が増えました。野生動物の生息域を奪い、ウイルスが人に感染する確率を上げていました。 そして狭くなった地球が、人から人へと流行を広げました。人の往来が増え、グローバル化が進んだことが拍車をかけたのです。 新型コロナは、ロンドンやニューヨーク、東京といった巨大都市で大流行しました。人口密度が高く通勤時間も長い。必然です。 都市を忌避する「分断」 情報を発信する大都市はこれまで、多くの人の羨望(せんぼう)の的でした。しかし、コロナでかつてない現象が起きました。 ――どういうことですか。 東京ナンバーの車が地方都市にいると「なんでいるの?」。都市部から地方に人がくるというと「えっ」となる。 都市部の人が、ウイルスをもったやっかいな人として忌避される。新たな分断を生みました。 ――国内でも入院すべきなのにできない、医療崩壊と呼ばれる事態がおきました。 医療関係者の敗北 コロナへの感染は、一定の確率でおきるので、感染自体は避けられない場合もあるでしょう。しかし本来、受けられたはずの医療を受けられずに亡くなるのは人災です。 欧米と比べて、人口あたりの感染者や死者数が少ないと言われますが、それとは別の次元の話で、誇れる状況ではありません。 残された遺族には、「寿命をまっとうできなかったのではないか」という後悔が残る。 医療者にとっても痛恨です。 入院させられない。どの患者… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
医療現場回る看護局長 オミクロン株警戒「マスク・消毒・換気を」
春待ち月 堺市立総合医療センターの産婦人科病棟で12月中旬、看護局長・谷口孝江さん(59)が看護師長に「最近どう? 困っていることはない?」と声をかけた。その横では、3人の看護師が患者の状態をモニターでチェックしていた。谷口さんは新型コロナウイルス禍の2年近く、看護師の不安や不満の声を聞き続けてきた。約700人の看護師らが働きやすい職場環境をつくることが、大事な仕事だ。 患者からの感謝の言葉が、看護を続ける上での大きなエネルギーになっている。谷口さんは大学卒業後に市立堺病院(当時)に就職し、最初は助産師として配属。ある日、仮死状態で生まれた赤ちゃんをとりあげた。「妊娠中の健康管理が悪かったのか。呼吸法が良くなかったのでは」と落ち込んでいた母親に、「あなたのせいではありません」と声をかけた。幸い、赤ちゃんは蘇生して元気に退院。母親は谷口さんの言葉が励みになったと感謝してくれた。 その後も内科などに異動し… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
花嫁も半沢直樹も…気高き大階段が演出 東京国立博物館
東京国立博物館で結婚式の前撮りをするカップル。朝の柔らかい光が2人を包んだ=2021年12月3日午前8時36分、東京都台東区、井手さゆり撮影 ステンドグラス越しの光が結婚式前の2人に降り注ぐ。東京都内の博物館。展覧会だけじゃもったいない。あの「大階段」を上ろう。 東京・上野公園の木々を抜け、東京国立博物館(東博)の本館に入ると、目の前に大理石の大階段がそびえる。ステンドグラス越しの光が降り注ぐ中、ウェディングドレスとタキシード姿の2人が見つめ合っていた。花嫁が新郎と手を携え、ともに人生を歩むように階段を上っていく。 「圧倒的な雰囲気が魅力。前撮りは絶対に東博と決めていました」 東京国立博物館で結婚式の前撮りをするカップル=東京都台東区 来年挙式を予定する30代のカップルの新婦が、そう言ってポーズを決めた。ドレスの長いトレーン(引き裾)が大階段に広がる。カメラマンも「外国のよう。ドレスがこんなに映える階段は、都内に他にない」とシャッターを切った。 記事後半では、地元で人気のグルメスポット紹介や会員登録すると応募できるプレゼントもあります。 東博は来年で創立150年… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
玄関から1歩、そこはリビング 小さな家で25歳が描く幸せの設計図
【動画】住まいのかたち 連載「住まいのかたち」① 玄関で靴を脱ぐ。1歩踏み出せば、そこはもうソファのあるリビング。見上げると、寝床のロフトが目に入る。水回りを加えれば、それが折出裕也(おりでゆうや)さん(25)の住まいのすべてだ。 山あいの平地に立つ三角屋根の一軒家に、デザインの仕事をしながら恋人(24)と暮らす。この家に置ける家具には限りがある。だから2人でいつも話し合う。いま、自分たちに何が必要か、これから、何が大事になるか。 「ここに住み始めたからこそ、見えてきたものがあったんです」 「住まい」を初めて意識したのは、北海道に住んでいた小学生のころ。借家から2階建ての新築住宅に引っ越した時だった。 両親が建築士と何度も打ち合わせを重ねた、念願のマイホーム。初めて見たときは、広くて、大きくて、ぴかぴかに輝いて見えた。両親の寝室や書斎に加え、自分や二つ上の兄、双子の妹の部屋もあった。吹き抜けのリビングで、テーブルをみんなで囲んで食事し笑いあった。庭では毎月、家族や友人らとバーベキューを楽しんだ。 だが、家が輝いている時間は長くは続かなかった。 連載「住まいのかたち」 2021年もステイホームの暮らしが続きました。多くの時間を過ごす「住まい」とは、私たちにとってどういう存在なのか。様々な「家」を舞台に、そこに住む人たちの姿を通して豊かな暮らしのヒントを探ります。 18歳になった子ども3人は… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
角野隼斗×かてぃん、中和してこそ僕 自分は何者かと焦ったあの頃
ショパン国際ピアノコンクールで活躍する一方、ジャズの殿堂「ブルーノート東京」でデビューを果たしたピアニストの角野隼斗(すみの・はやと)さん(26)。飛躍の一年を振り返り、これまでの歩みと自身の現在地に対する思いを率直に語ってくれました。 自宅でピアノに囲まれる角野隼斗さん ――クラシック、ジャズ、ポップス、全てのジャンルに関わりながら、いずれのカテゴリーにも属していない、極めてオリジナルな存在です。自由と引き換えに、孤独やしんどさを感じることはないですか。 実は、ショパン・コンクールの時までは考えたこともなかったんです。自分が歩んできた道が「普通じゃない」なんて。 でも、コンクールのあと、それが顕在化してしまった。「二刀流」「異端」などと言われるのは、しょうがないとは思いつつ、正直、違和感がないわけではないです。 ――あらためて振り返って、ショパン・コンクールはどういう経験でしたか。 葛藤の連続でした。クラシック以外のいろんな音楽もやってきた分、知らず知らずのうちに、混じってはいけない要素が自分の音楽に混じってしまっているんじゃないかとか、本当に僕がここでショパンを弾いていいのかとか、いろんなことを考えてしまって、怖くて、不安でたまらなかった。頭では、そんなことを考える必要はないってわかってはいるんですけど。 でも一方で、僕は、垣根がないからこそ生まれる音楽をやろうとしている人間です。そんな僕の音楽を、ショパン・コンクールという大きな舞台で、あえて多くの人に聴いてもらいたいという思いもありました。 ショパン・コンクール後の初仕事。演奏する角野隼斗さん=11月12日、神戸市灘区の六甲学院 カテゴリーは意識しない ――わかりやすさを求めてレッテルを貼ろうとする社会から全力で逃げ、カテゴライズされることのない世界を生きるための挑戦を続けている、という感じですね。 僕は、デジタルが当たり前の時代に生まれたせいか、幼い頃からいろんな情報が平等にインプットされているので、もともとカテゴリーというものをあまり意識しないんです。多様性って概念が、当たり前に自分のなかに受け入れられている世代というか。 最近、「常識にとらわれない人」「常識を壊す人」みたいに言われることが多いんですが、僕は別に壊そうなんて思ってなくて。単に、複数の世界の常識に同時に従っているだけなんです。いろんな世界を生きられる人生の方が、絶対、面白いじゃないですか。 ――ジャズとクラシックを弾き分ける、という感覚もない、ということですね。 弾き分ける、ということを考えなくなるのが理想ではあります。そのつど、それぞれの楽曲にあった弾き方で弾きたいと願うだけです。ただ、ジャンルというものは同じような考え、感性の人々が集まって成立するものなので、そこに形成されている「文化」にはできる限りリスペクトを払いながら、それぞれの楽曲に臨まなければと思っています。 記事の後半では、音楽大学ではなく東京大学に進むという、ピアニストとしては異色の経歴をもつ角野さんが、ピアノと勉強の「両立」について、そして自身の学び方について語ります。お気に入りのピアノでの即興演奏も動画でご覧いただけます。 ――そもそも音大ではなく、東大に行こうと思ったのはなぜですか。 単に、東大にもやりたいことがいっぱいあったからです。僕は音楽と同じくらい、数学も好きでしたから。東大に行ったって音楽はできるし、ピアノも続けられる。 ただ、クラシックに対する複雑な気持ちも、実は少しだけありました。小さいころからずっとピアノをやってきたけど、中学、高校の頃、行儀のいいクラシックにちょっと飽きて、離れてしまって。ハードロックとかメタルに憧れて、バンドでドラムをやったり、ボーカロイドの曲をつくったり。自分で演奏し、ニコニコ動画に投稿するようになったのもその頃でした。 このままピアノが土日しかやらない趣味になっていくのかもしれないと思うと、それはすごく怖かった。でも、それ以上に、音大に入って一日中練習ばっかりしている自分が、当時は全くイメージできなかったんです。 ピアノに囲まれた自宅の部屋でウクレレを楽しむ フランスで研究した「耳コピ」 ――大学院1年の時、現代音楽の最先端であるフランス国立音響音楽研究所(IRCAM)に留学していますが、そこではどんな研究をしていたのですか。 主に、自動採譜の技術につい… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「何でこんなことを…」行政職員も悩んだ ハンセン病取材の記録
三重テレビ放送(津市)の報道制作局長、小川秀幸さん(55)が、20年に及ぶハンセン病の取材記録を本にまとめた。取材で元患者の苦しみに接し、離れられなくなった。「もっと大々的な報道があれば」。遅すぎた救済について、メディアの責任も問う。 取材を始めたのは、国の強制隔離政策を違憲とした熊本地裁判決(2001年)がきっかけ。当時は三重県政を担当しており、全国共通の話題の一つだった。今年5月現在でも、全国に14カ所(私立含む)あるハンセン病療養所に入所する1004人のうち、同県出身者は28人で、特別に多いわけではない。 ハンセン病 らい菌により皮膚や末梢(まっしょう)神経に障害が起きる感染症。政府による患者の強制隔離政策は1907年に始まった。感染力は弱く、40年代には特効薬も確認されていたが、強制隔離は96年まで続いた。元患者が起こした国家賠償請求訴訟で01年、熊本地裁が違憲性と国の責任を認定。政府は控訴せず、そのまま確定した。 ところが、02年に初めて岡山県にある長島愛生園を訪ね、衝撃を受けた。案内してくれた当時67歳の「為(ため)さん」は、同園の三重県人会で会長を務め、13歳からそこで暮らしていた。 ほかにも、戦後すぐ、3人の… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル