1985年、新日鉄釜石ラグビー部は日本選手権で初の7連覇を達成した。屈強な男たちが体をぶつけながら前進していく姿は「北の鉄人」と呼ばれ、全国のファンに愛された。 同じ年、佐伯悠(ゆう)さん(36)は神奈川県で生まれた。大学卒業後の2007年、新日鉄釜石の後継にあたる釜石シーウェイブス(SW)に入団。「ラグビーの街」でプレーすることに胸を膨らませていた。 ところが、当時、チームは低迷していた。選手は練習に遅刻し、活気もない。「釜石にとってラグビーは過去のものか」 11年3月11日。あわてて逃げた高台で、津波にのみ込まれる街を見た。 佐伯さんは2020年に転勤で釜石を離れ、釜石SWも退団しました。ところがある新聞記事を機に、釜石に戻ることを決めました。 スタンドに大漁旗、涙ぐみ応援 そしてW杯… 釜石に来てから結婚した妻も… この記事は有料会員記事です。残り1163文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
選手の中傷なぜ起きる SNSが可視化した独りよがりな「正義感」
多くのアスリートが活躍した北京冬季五輪。しかし残念なことに、国内外問わず誹謗(ひぼう)中傷問題が注目される場ともなった。スキージャンプ混合団体で失格となった高梨沙羅選手をバッシングする人が、SNSの一部で見られた。また、スノーボード女子ハーフパイプの米国代表クロエ・キム選手は、人種差別を背景とした深刻な中傷被害を吐露した。フィギュアスケート女子の中国代表の朱易選手に対しては、米国生まれということもあって心ない声が止まらず、一時期、投稿者のSNSアカウントに停止措置が取られた。 しかし実は、アスリートへの誹謗中傷問題が大きく取り上げられるきっかけとなったのは、昨年の東京五輪だった。卓球の水谷隼選手、サーフィンの五十嵐カノア選手、体操の橋本大輝選手など、多くのアスリートたちが、誹謗中傷被害について毅然(きぜん)と訴えたのである。それを受けてスポーツ庁も、北京冬季五輪直前に、誹謗中傷をやめるよう改めてメッセージを発信した。 なぜ頑張っているアスリートに対して、SNSでそのような誹謗中傷が投稿されるのか――これを読んでいる多くの人が、そう考えたに違いない。 実際には、アスリートへの誹謗中傷はつい最近始まったものではなく、いつの時代にも起きてきた現象である。スポーツは観客を熱くさせる。そのため、時に居酒屋やテレビの前などで攻撃的なことを言う人が現れる。 問題は、SNSが普及して誰もが世界に発信できる人類総メディア時代になったことで、攻撃の規模が格段に大きくなったことだ。SNSには可視性(投稿内容が誰にでも見られる)、持続性(いつまでも残り続ける)、拡散性(誰でも簡単に拡散できる)という特徴があるためだ。アスリートがアカウントを持っていれば、直接リプライ(返信)やダイレクトメッセージで本人を攻撃することもできる。 「頭を使え」「死ね」「引退しろ」「(容姿が)チャラチャラしてる」……。実際にアスリートに向けられた言葉だ。こうした人権侵害ともいえる現象が横行する中、アスリートたち自身が体を張って訴えることで、やっと社会が注目するようになったのである。 では、この問題にはどのように対処すればよいのだろうか。 まず、国際オリンピック委員… この記事は有料会員記事です。残り1368文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
幼魚に寄生したポリプ→クラゲに成長 国内確認はこれまで1種のみ
秦忠弘2022年3月13日 10時35分 神奈川県藤沢市の新江ノ島水族館(えのすい)は、幼魚に付着した「ポリプ」から遊離したクラゲを国内で初めて確認したと発表し、一部を展示中だ。ポリプは生殖体としてのクラゲになる前の状態。魚に寄生する種類は国内では1種しか確認されておらず、同じ種類か調べている。 サカナヤドリヒドラ属の一種とみられ、クラゲの状態で傘は直径約3ミリ。1月に同水族館が駿河湾や相模湾で採集した幼魚の体表にポリプが寄生しているのを見つけた。 観察を続け、相模湾で採集したボラに付着していたポリプからクラゲが遊離したのを1月19日に確認。駿河湾で採集したカゴカキダイに付着したポリプからも同23日に遊離を確認した。今月12日現在、約400個体の遊離が確認され、うち、両湾で採集したカゴカキダイに付いたポリプから遊離した10個体を展示している。 サカナヤドリヒドラ属は魚類の体表に寄生するクラゲで、世界で6種が知られている。国内では1941年に1種がポリプで確認されたのみで、クラゲの情報はほとんどなかったという。水族館は「今回の生殖体が、同じ種かも含めて調べていきたい」としている。 同水族館の営業時間は9~17時。入場料は大人2500円、高校生1700円、小・中学生1200円、幼児(3歳以上)800円。問い合わせは同水族館(0466・29・9960)へ。(秦忠弘) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
食べても食べてもあきぬ年300枚 広島のお好み焼きにはまった教授
1年間に食べるお好み焼き、なんと300枚。それでも、「同じものを食べ続けている」という感覚はまったくない。 広島経済大(広島市安佐南区)の細井謙一さん(53)は、経営学部教授として教壇に立ちながら、大好きなお好み焼きの魅力を発信し続けている。 昨年12月、大学近くのお好み焼き店で、細井さんはこの年290枚目となるお好み焼きと向き合った。箸は使わず、へら一本でさくさくと食べ進めていく。 「これが広島の食べ方ですよ」と細井さん。使っている具材や作り方、新しくオープンした店の話。店主とのお好み焼き談義は止まらなかった。 「麺パリ派」と「ふわふわ派」 細井さんは神戸大大学院でマーケティングを専攻し、1995年に広島で大学教員になった。 お好み焼きに関心をもったのは2008年からだ。担当した社会人向けの講座で、地元のソースメーカーで働く受講生に誘われ、作り方をプロから教わった。 店ごとのこだわりの深さと、広島で独自の発展を遂げた食文化におもしろさを感じた。 「ある店では、天気をみて数秒単位で麺のゆで時間まで変える。お客さんに喜んでもらうための工夫を見つけるのが好き」。鉄板を挟んで店主からこだわりを聞くのが「至福のひととき」だ。 関西のお好み焼きは、具材を混ぜてから鉄板に移す「混ぜ焼き」が主流だ。一方、広島のお好み焼きは鉄板の上で層をつくっていく「重ね焼き」が特徴だ。 細井さんによると、広島の店は、麺を揚げ焼きにした「麺パリ」派と、具材を押し付けずにふっくら仕上げた「ふわふわ」派に大きく二分される。細井さん自身は「どっちも派」だ。 たとえおいしくないと感じるお好み焼きに出合ったときも、何が原因なのかを考えたい、と細井さん。 1年間に食べる枚数は2010年に100枚だったのが、16年には200枚と倍増し、18年にはとうとう300枚を突破した。 なぜ広島にお好み焼き店が… お好み焼きは、料理としては客単価や回転率が決して高いとはいえない。その店が広島で広がったのはなぜか。細井さんは研究対象としても関心をもった。 安価でおなかがいっぱいにな… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「日本語を武器にする」ウクライナ人留学女性 SNSに込める願い
ウクライナの首都キエフ出身で、大阪大に在学中のマリニナ・カテリーナさん(21)がロシアの侵攻後、現地から届く情報を日本語でSNSに投稿している。村上春樹にあこがれ、日本に留学してきた。故国で突然始まったまさかの戦火に「1人でも関心を持ってほしい」と発信を続ける。 《楽しみにしていた梅の季節がやってきました。私が平和で素敵な日本にいる間、私の国では爆発音、軍用機の飛行音が響いて、空爆で建物が破壊されたり、焼ける匂いがしたり、青い空が見えなくなったりします》 ロシア軍の侵攻が始まって3日後の2月27日、カテリーナさんはこんな文章を、自身のインスタグラムに投稿した。 砲撃でめちゃめちゃに破壊された高層アパートの写真も添えた。 《私が住んでいたところから歩いて約5分にある建物が写っています》 ウクライナにロシア軍が侵攻した2月24日、カテリーナさんは大阪府箕面市の自宅で、翌日締め切りの課題論文「宮沢賢治の作品における自然と人間の交流の特徴」に取り組んでいた。 なにげなくスマートフォンをのぞき込んだ時、日本と7時間の時差があるキエフにいる友人たちが「戦争が始まった」とチャットに次々と投稿を始めた。 「信じられなかった。遠い世… この記事は有料会員記事です。残り1235文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
50年前、自転車で集めた子どもの絵が本に よみがえる昭和の風景
ひとりの青年が自転車で全国を回る旅に出た。行く先々で小学校を訪ね、頭を下げた。「子どもの絵を集めて展示したいんです」。1年かけて500枚を超す絵が集まり、東京に戻って展示した。それから50年余り。自宅で眠っていた絵が本になった。原画展も開かれ、子どもが描いた昭和の風景がよみがえる。 埼玉県川越市の鈴木浩さん(76)。大学を卒業後、半年間のアルバイトで旅費をつくり、東京・中野の下宿を出発した。1969年10月、北をめざした。 背中を押したのは、デパートで見た児童画展。「よく描けてる。でもコンクールのためではなく、自由に描いた作品を並べたら面白いのでは」。昼はバイト、夜間部の授業は舟をこぎ、映画館に通いつめる日々。当時、多くの大学が学園紛争で荒れていたが、「入っていけない」「でも、こんなことしていていいのか」。悩んだ末、就職ではなく旅を選んだ。 ■無鉄砲な旅、米軍統治下の沖… この記事は有料会員記事です。残り1001文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
水都・大阪に「アートの島」 建築家が描いたビルと橋で織りなす美
今年2月に関西最大級の大型美術館が開館し、あらためてカルチャースポットとして注目を集める中之島(大阪市北区)。時代に応じて変貌(へんぼう)を重ねる「アートの島」の記憶を訪ねて、文化施設が立ち並ぶ一帯を歩いた。 水都・大阪の中心部に位置する中之島は、堂島川と土佐堀川に挟まれた東西約3キロの細長い中州だ。江戸時代は河川交通の要衝として栄えて諸藩の蔵屋敷が集まり、モノや人が行き交った。明治期以降はモダン建築に彩られた近代都市の中枢として発展を遂げ、独創的な文化の営みが展開されてきた。 今年2月、高層ビル群の傍らに巨大な黒いキューブが出現した。構想から約40年を経て開館した「大阪中之島美術館」だ。近現代美術を核とした6千点超のコレクションの中に、約100年前の中之島を描いた油彩画がある。 「都市美」を掲げたまちづくり 洋画家・小出楢重の「街景」(1925年)は、ビルや工場などの巨大な近代建築と、河畔に並ぶ黒い瓦屋根の商家を対比的に描いた風景画。当時の大阪市は市域拡張などにより、人口も面積も東京市をしのぐ「大大阪の時代」を迎えていた。中でも、蔵屋敷の土地が一斉に払い下げられて官民一体の開発が進んだ中之島は、市庁舎や銀行、図書館、ホテルといった西洋風の建築が並ぶ唯一無二のモダン空間へと姿を変えた。 大阪大学の橋爪節也教授(美術史)は「それらの建物が生み出すのは、旧来の街並みとはまるで異なる最先端の都市風景。中之島を描いた画家や版画家たちの作品からは当時の驚嘆と興奮が伝わってくる」と話す。 幾何学式庭園や芝生広場が広がり、ネオ・ルネサンス様式の大阪市中央公会堂が美しくたたずむ中之島公園の一帯は、当時から特に人気だったようだ。小出も自身の随筆集に「大阪の近代的な都市風景として(中略)先(ま)ず優秀だといっていい」と記している。 大大阪時代の大阪市は「都市美」という理念を掲げて、まちづくりを進めた。大阪歴史博物館の船越幹央学芸員によると、「その理念がデザインとして具現化した一例に、中之島と対岸を結ぶ橋の数々を挙げることができる」。当時の姿をとどめる淀屋橋などを眺めると、橋の下にアーチを設けることで、橋上の水平ラインが強調されているのがよく分かる。そこには、橋の整備に中心的に関わった建築家・武田五一の思想が息づいているという。「武田は水平な橋と垂直な建物の対比によって美的な景観を作ろうと考えた。建物がさらに高層化した現在にあっても、その効果はなお生きていると感じます」 記事後半では、中之島に架かる橋の数々に秘められた思想と、戦後日本を代表する前衛美術集団「具体美術協会」の記憶をたどります。 意匠を凝らした近現代建築と… この記事は有料会員記事です。残り862文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「心霊スポット」の廃業ホテルで火災、放火か 岐阜・養老町
深津弘2022年3月12日 15時06分 12日午前3時40分ごろ、岐阜県養老町大巻の廃業したホテル「フルー」から、白い煙が上がっていると通行人から119番通報があった。県警養老署によると、鉄骨3階建ての2階の客室1室36平方メートルが焼け、約2時間後に鎮火した。けが人はいない。同署は放火の可能性があるとみて調べている。 署などによると、ホテルは2013年に廃業。インターネットで「自分以外の足音が聞こえる」などのうわさが広がり、「心霊スポット」として有名になった。その後、無断で出入りする若者が相次ぐようになったという。昨年12月4日未明にも2階の別の客室で不審火があった。 電気は通っておらず、火の気はない。蛇腹式の門扉は閉まっていて立ち入り禁止の貼り紙がしてあるが、窓ガラスが割れている部屋が複数あるという。昨年の不審火以降、署は管理者に防犯対策を求めていた。(深津弘) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
父を奪った三陸の海 絞り出した3行 慰霊碑にこめた教訓、誰に託す
3月11日、午後2時46分。宮城県・気仙沼湾の入り口にある高台に、津波で身内を失った遺族ら約150人が集まり、海に向かって手を合わせた。 一角にある慰霊碑には、こう刻まれている。 この悲劇を繰り返すな 大地が揺れたらすぐ逃げろ より遠くへ より高台へ 建立から10年、東日本大震災から11年。自らが書いたこの3行を、誰にどう受け継いでいくのか。遺族で語り部の一人、小野寺敬子さん(60)は海を見つめ、思いを巡らせていた。 慰霊碑にほど近い「震災遺構・伝承館」で働く。コロナ禍のなか、1時間おきに館内を消毒して歩く。屋上への扉から高台と慰霊碑が見える。そこで必ず一礼する。視界の向こうに、父を奪った三陸の海がきらめく。 指定避難場所だから 碑がある気仙沼市の波路上杉ノ下(はじかみすぎのした)地区は、過去に何度も津波に襲われた。震災前、市は小野寺さんの父ら住民とワークショップを重ね、1896年の明治三陸大津波でも浸水しなかった標高約12メートルの高台を避難場所に指定していた。だが、津波はそこに避難していた約60人をものみこんだ。 小野寺さんは間一髪で逃げのびた。「指定避難場所だからと言って安心してはいけなかった」。流された自宅跡を歩きながら痛感した。 父を含め、地区の犠牲者は住民312人のうち93人。遺族会ができ、広報や事務を引き受けた。妻と母を亡くした佐藤信行会長(71)から「碑に刻む教訓がほしい」と頼まれ、絞り出したのがこの3行だ。 碑が建ったのは震災1年後の3月11日。遺族ら数百人が参列した。それ以来、月命日には献花が絶えない。毎年3月11日には記者やカメラマンも集まる。積極的に取材を受けた。 七回忌 連絡とれぬ遺族 集まらぬ会費 七回忌を迎えるころ、会費の集まりの悪さに気づいた。復興公営住宅に入ったり、各地で自宅を再建したりして、連絡の取れない遺族が増えた。小野寺さんも仮設住宅を出て新居を再建するため新たなローンを抱える一方、医師からがんを告知されてもいた。 それでも3月11日の集まりはおろそかにできない。あいさつを考え、会場を準備し、僧侶を手配する。資金不足の中、ときに自腹を切って続けた。昨年3月の震災10年。コロナ禍にもかかわらず、慰霊碑には100人以上が集い、こうべを垂れた。 「やはり特別な場所なんだ」。改めて遺族会の意義を感じたが、担い手不足は否めない。十数人いた役員のうち数人はすでに他界した。碑の掃除は、管理は。「指定避難場所でも安心してはいけない」という警告を、誰が伝えていくのか。 震災前、三陸には津波への警戒を呼びかける石碑が各地にあったが、年月が経って風景に溶け込み、誰も注意を払わなくなっていた。震災後、あちこちに慰霊碑やモニュメントができたが、みんなどう継承していくのだろう。 娘に言われた「私たちはもう被災者じゃない」 「こたつに入ってアイスを食… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
会社と争議、残業代は得られたが…戦わない同僚にも支払われ空しい
社会人3年目の20代女性です。会社と争っていることに疲れ果てました。 私の会社ではセクハラやパワハラ、法を無視した労働がまかり通っており、うつ病になりました。家族と相談し、労働組合に加入して会社と交渉することにしました。会社はしらを切り、交渉のたびに個人攻撃され、うつ病はよりひどくなりました。復帰できても、周りからは白い目で見られるだろうし、出世は諦めないといけないよなと思わざるをえませんでした。 交渉の結果、社員全員に未払い残業代が払われることになりましたが、何も戦っていない人も同額をもらっている姿を見て、空しくなりました。会社は変わらないし、会社の言いなりに働いている人が出世していくし、何も意味がなかったんじゃないか……と。 今までも労働環境で精神病になった社員はいましたが、全員が退職して新天地で働いています。それを見て、自分はなんて馬鹿なことをしてしまったんだと後悔します。社内にも「応援してるよ」と言ってくれる人はいますが、組合に加入したり、交渉に加わったりするのは難しいと断られ続けています。 そういうことが何度もあったので、自分が善意で、正義感を振りかざしてやった行為は自分を苦しめるだけだったと結論づけるしかありません。やり切れない思いです。 回答者 政治学者・姜尚中さん あなたの怒り、やるせなさで頭を過(よぎ)るのは、「公憤」という言葉です。純粋に私的な利益や思惑が害されて湧き起こる怒りが「私憤」だとすれば、あなたの場合は社会的な正義や公正について共有されていなければならない基準が侵害された時に感じる怒りです。それは、大袈裟(おおげさ)に言えば、「神の怒り」に近いものであり、「公憤」に突き動かされたあなたの言動には一点の瑕疵(かし)もないはずです。 にもかかわらず、惨めな気持… この記事は有料会員記事です。残り1068文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル