【静岡】沼津港大型展望水門施設「びゅうお」がリニューアルされた。富士山や駿河湾、沼津市の街並みを一望できる観光名所が、新たな「映(ば)え」スポットとして生まれ変わり、ゴールデンウィーク中は多くの観光客でにぎわった。市にとって重要な観光資源の一つだが、本来の目的である津波を防ぐ能力については意外に知られていない。 「びゅうお」は、東海地震の津波対策として水門を県が建設し、展望回廊を沼津市が併設した施設だ。1997年に着工し、2004年9月に運用を開始した。名称は、景色や眺めを意味する「view(ビュー)」と「魚(うお)」を組み合わせた造語だ。 沼津港を訪れる観光客を呼び込み、展望回廊の来場者は3月に延べ200万人を突破した。4月22日にはリニューアル・オープンし、ゴールデンウィーク中は連日2千人近くが来場した。 リニューアルによって、雰囲気はずいぶん変わった。地上30メートルにある連絡橋の床は、海の上を歩いているような気分を味わえるほか、巨大深海魚が飛び出るようなトリックアートが施されている。市観光戦略課の担当者は「リピーターを増やすために、コンセプトに『映え』を意識した」と話す。 沼津観光の人気スポットとなっている「びゅうお」だが、総事業費は約43億円にのぼり、うち約39億円が水門部分だ。サイズも桁違いで、津波をシャットアウトする扉体(ひたい)は幅40メートル、高さ9・3メートル、厚み4・5メートル、重量406トンと日本最大級という。沼津港の内港入り口に設置され、港に出入りする船舶の航行に支障がないよう扉体はふだんは水面から上がった状態になっている。 震度6弱相当の地震を感知し… この記事は有料会員記事です。残り767文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「うれしさも半分…」 50年前の新聞に残る父の言葉 思い馳せる娘
「復帰祭り? やりません。ふだんと同じ営業をするだけです。うれしさも半分、というところではありませんか」 ちょうど50年前、1972年5月15日付の朝日新聞東京版に、こんなコメントが掲載されている。JR飯田橋駅近くで沖縄料理店「島」(東京都千代田区)を営む故・上地与市さんの言葉だ。 与市さんの次女で、いま店を切り盛りする山本文江さん(73)は、当時の紙面を手につぶやいた。 「この時の父は、どんな思いだったのでしょうね」 ◇ 与市さんは1916年、沖縄の離島、宮古島の農家に生まれた。戦前に島を離れ、東京の大学に入学。戦中は東京市役所(現都庁)に勤務した。戦後に退職し、書店を開いた。だが、書店は軌道に乗らず、62年、当時都内では珍しかった沖縄料理店を始めた。 与市さんは厨房(ちゅうぼう)に立つ傍ら、もうひとつの顔があった。閉店後、店内のカウンターに座り、故郷への思いを、字にのせた。 当時の週刊誌に、与市さんの投書が掲載されている。終戦後、沖縄に帰省するため、都庁に渡航申請の用紙を取りに行った時のことを振り返っている。 「中途でわたくしのペンは進まなくなり、両眼からは涙がとめどなく流れ出て、ついに申請用紙をぬらしてしまいました。と同時に全身から怒りがこみ上げてきました」「何故に貴国(米国)の許可が必要でしょうか」 与市さんの思いは、店の隅々に刻まれている。 「ほら、この『島』。肩が張… この記事は有料会員記事です。残り838文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
男性用トイレにもサニタリーボックス 膀胱がんや加齢による尿漏れ
サニタリーボックス(汚物入れ)を男性用トイレにも置く動きが埼玉県内で広がっている。膀胱(ぼうこう)がんなどの影響や加齢で、日常的に尿漏れパットが欠かせない人やLGBTQ(性的少数者)への配慮からだ。(猪瀬明博、上田雅文、加藤真太郎) 県のまとめでは、県内で2018年、膀胱(ぼうこう)がんや前立腺がんと診断された男性は約6千人。これらの病気や加齢で、尿漏れパッドを付ける男性は少なくない。 加須市に住む日本骨髄バンク評議員の大谷貴子さん(60)は昨年6月、公共施設などの男性用トイレにサニタリーボックスがほとんど置かれていないと知った。大谷さんや当事者の声を聞いたさいたま市議が市議会でこの問題を取り上げた。 市が昨年8月に調査したところ、市内333公共施設の男性用トイレのうち、ボックスが置かれていたのは8施設だった。市は衛生面などの状況を見極めた上で設置を進め、市内の10区役所や文化センター、体育館など約120施設に設置した。 同市大宮区の男性(71)は数年前に大腸の病気にかかり、人工肛門(こうもん)を付けていた。勤務先や買い物に行く商業施設のトイレにはボックスがなく、人工肛門に付けた袋を取り換えるとかばんに入れて持ち帰っていた。「気持ちがめいって、外に出るのがおっくうになった。せめて多目的トイレに置いてくれたら当事者は助かる」という。 三郷市では先月初め、さいたま市の取り組みを参考に、各施設の意向を確認した。市内57カ所の公共施設で設置希望があり、市役所や図書館、体育館などに加え、多機能トイレがある市内18の公園にも置いた。「公園の多機能トイレへの設置は画期的」(日本トイレ協会の砂岡豊彦事務局長)という。足踏みペダルが付いたステンレス製を229個置いた。木津雅晟市長は「今後も多くの方が安心して利用できる公共施設の環境づくりに取り組む」と話す。 加須市は4月から本庁舎と3総合支所の男性用トイレの個室計24室に置いている。市の担当者は「病気の方のほか、LGBTQなど性的少数者の方にも配慮した」と話す。 ◇ 男性用サニタリーボックスの必要性を提唱した日本骨髄バンク評議員の大谷貴子さんは「こんなに反響があるとは思ってもみなかった」と驚く。当初、周りの男性の反応は鈍く、大半が「ないことに疑問を抱かなかった」「尿漏れパッドが必要になったら考える」などと話していた。 一方でボックスがないために不便を強いられている人の中には、パッドの使用を知られたくなかったと言う人が何人もいたそうだ。 尿漏れの要因は病気だけではない。男女の別なく加齢でも起こりうる。いまは健康増進のためにスポーツなどをする中高齢者向けに、様々なパッドやパンツ型のおむつも普及している。 大谷さんは「ボックスの常備は時代の要求。遅まきながら、それに気づいたということ」と受け止めている。 加須市は4月からのボックス設置の目的について、性的少数者への配慮にも言及した。「女性から男性になった友人がいる。これまでは生理用品を袋に入れて持ち帰っていたそうで、(設置を)喜んでいた」と大谷さん。これからも声をあげていこう。そう思いを新たにしたという。 ◇ 一般社団法人・日本トイレ協会(東京)は2月に開いたセミナーで「『男子だって汚物入れが欲しい!』~ジェンダーフリーなサニタリーボックスを!~」をテーマに議論した。 砂岡事務局長が「男子トイレにも汚物入れが欲しい。汚物入れという名前も含めて、みんなで考えていきたい」と問題提起した。10年ほど前、病気の治療で座薬を使い、ナプキンをあてていた経験を持つ。「病気の影響で自分の意思と関係なく漏れてしまい、日常的に尿漏れパットが欠かせない男性が増えている。高齢化で軽い失禁を経験する人も増えている。私もそうだったが、他人には話しづらい」と話す。 協会が2月に実施したインターネット上でのアンケート(回答者557人)で、尿漏れパットやおむつなどを使う男性の7割近くが、男性トイレにサニタリーボックスがなくて困った経験が「ある」と答えた。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「うれしくない」顔ゆがめた先生、万歳した首相 沖縄返還は誰のため
柔らかな日差しが朝の教室に差し込んでいた。 1972年5月15日、静岡市。小学2年の田中千香子さん(58)は教室で、先生が来るのを待っていた。二重まぶたが印象的な、20代後半くらいの女性。やさしくて、みんなから慕われていた。ただ、この日、教卓の前に立つと、表情はゆがんでいた。 「私の生まれた沖縄というところは、みんなの住む日本に帰ってきます」 「でも、私は少しもうれしくありません」 静岡駅前や、東京・銀座のデパートでは「復帰セール」や記念メダルの即売会、沖縄の物産展などが催され、新聞には「日本でいちばん『太陽に近い場所』」とうたった航空会社の広告が並んでいた。 先生もきっと喜んでいるはずと思っていた。予想もしていなかった言葉に、なんで?とは聞けなかった。 土砂降りの雨だった。 1972年5月15日、那覇市。36歳の中学教員だった山城正二さん(86)は公園で、ずぶぬれになりながら拳を突き上げていた。 米軍統治下、事件事故は頻発… この記事は有料会員記事です。残り4090文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
スナネコ3匹、素敵なアラビア語の名前もらったよ 那須どうぶつ王国
母親のジャミールに寄り添う3匹。左からショジャー、アルド、ナジュム=2022年4月4日撮影、那須どうぶつ王国提供 那須どうぶつ王国(栃木県那須町)で2月に生まれたスナネコの子3匹の名前が決まった。いずれもアラビア語で、オス2匹は「ショジャー」、「アルド」。意味は勇敢、大地だ。メスは「ナジュム」で、星を意味するという。 3~4月の公募で集まった2068通から選ばれた。アラビア語の名前は、スナネコの生息地にアラビア半島が含まれることや、両親の名がともにアラビア語であることにちなんだ。 同園広報担当の宮地さくらさんは「名前には、こう育ってほしいという飼育員の願いがこめられている。名前を呼び愛着をもち、飼育員の気持ちにも思いをはせてほしい」。 スナネコの子猫3匹が昼寝したり、遊んだりしている動画、写真を集めました。 アルドは誕生時に低体温にな… この記事は有料会員記事です。残り132文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
A Ishigaki, la construction d’une base militaire japonaise ravive les blessures de l’histoire
Construction d’une base de défense antimissile à Ishigaki (Japon), le 30 novembre 2021. THE NEW YORK TIMES/NYT-REDUX-REA « Le deigo a fleuri, a appelé le vent mais la tempête est venue… » Shima uta, émouvante « chanson des îles » du groupe The Boom, résonne dans les ruelles écrasées de soleil et bordées de béton […]
【写真】「本日より円で」の貼り紙、製塩業廃業…50年前、沖縄の姿
朝日新聞写真館 戦後、米軍に統治された沖縄の27年間は「アメリカ世(ゆー)」と呼ばれる。通貨はドル、車も米国式の右側通行で、本土との往来にもパスポートが必要だった。 50年前の5月15日午前0時、全島にサイレンと汽笛が鳴り響く中、沖縄は日本政府が統治する「ヤマト世」に復帰した。 政治、経済、生活様式を大き… この記事は有料会員記事です。残り231文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
【写真】サトウキビと米軍基地と 半世紀前、沖縄の子どものまなざし
朝日新聞写真館 子どもたちの声が響いた大型連休。 沖縄では1971年、米軍基地にあった毒ガス兵器の移送の合間に、子どもたちが路地を駆け回っていた。 夜な夜な米兵でにぎわう嘉手納基地周辺の歓楽街は、地元の子どもにとっては生活圏だった。 ある普天間高校の生徒による… この記事は有料会員記事です。残り252文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「待ちに待った祖国へ」復帰の喜び、雑誌につづった那覇の中学生は今
本紙の声欄には、沖縄に関する投稿も多く寄せられている。那覇市の呉我(ごが)愛子さん(64)は2020年10月、「半世紀にわたって交流を続ける県外のペンフレンドがいる」と投稿した。文通のきっかけは「沖縄の復帰が決定した喜びを子ども向け雑誌に投稿したこと」だという。 1970年の雑誌のコピー 復帰とは? 記者が自宅を訪ねると、大切に保管していた雑誌のコピーを見せてくれた。1970年6月、沖縄の返還が決まった約半年後だ。投稿にはこうある。「わたしたちの住んでいる沖縄が、1972年には返かんされることになりました。祖国へ帰るのです。待ちに待った祖国へ。どうぞみんな喜んでください」 これに対し、雑誌の編集部は「沖縄が日本に帰る、これは日本国じゅうみんなの願いでしたね」とのコメントを付けた。 沖縄 復帰50年に考える 朝日新聞の「声」欄に投稿いただいた人たちに、沖縄とのかかわりや思いについて聞きました。後半では、本土出身で、沖縄に向き合い続ける人も登場します。 当時中学1年生だった呉我さ… この記事は有料会員記事です。残り1472文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
【写真まとめ】50年前の5月15日 黒板に「きちはそのまま残る」
1972年5月15日。降り続く雨の中、沖縄は、本土復帰の日を迎えました。 「街は静かで、人通りも少なかった。当初あった復帰歓迎の熱気は失われていた。米軍基地が残ることや経済への不安が大きくなっていた」。当時、取材をしていたカメラマンの言葉です。 ベトナム戦争が激化する中、米軍基地からは、この日も、いつもと同じように米軍機が飛び立ちました。クラス別の討論会で、「復帰」について小学生が黒板に書いた「きちはそのまま残る」という不安は、いま、現実となってしまっています。 50年前の「復帰の日」。その前夜から、写真で振り返ります。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル