大阪府は14日、新たに3440人が新型コロナウイルスに感染したことを確認したと発表した。前週の同じ土曜日(7日)より752人少なかった。前週の同じ曜日を下回るのは、5月6日以来で8日ぶり。新たに死亡が確認された人はいなかった。 府内の感染者は延べ93万2816人になり、死者は計4988人。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
Yu Darvish gets no decision as Padres beat Braves in comeback
Atlanta – Yu Darvish got a no decision Friday in a start that lasted 5⅔ innings for the San Diego Padres, who came back to beat the Atlanta Braves 11-6. The 35-year-old right-hander struck out four and was charged with five runs on nine hits and a walk. He allowed […]
事故で内定辞退→イラスト1枚5千円で生計 扉を開いたスキル市場
大学4年の冬を迎えたころ。福岡県の白竹桜さん(26)は、卒業後の生活を思い描けないままでいた。 その数カ月前、事故に遭って歩くことができなくなり、非常勤として働く予定だった学校に内定辞退を申し出ていた。 これからどう生計を立てればいいのだろう――。 前を見なければ。悩んだすえ、自分にできることに目を向けると、高校時代に勉強したデザインが思い浮かんだ。 リハビリもあり、毎日出勤して働くことは難しい。だが、インターネット上でイラストの作製や受注についてやりとりできるのであれば、自宅でもできる。 そこでたどり着いたのが、「スキルマーケット」というサイトだった。 「能力を売買する」という意… この記事は有料会員記事です。残り2330文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
静かだった沖縄本土復帰の日 米兵に夫を殺された妻はつぶやいた
ベトナム戦争への従軍取材の経験もある報道写真家の石川文洋(ぶんよう)さん(84)は、1972年5月15日、復帰を果たした沖縄の当日を撮影して回った。その日の様子を「静寂」だったと振り返る。 石川さんは那覇市首里の出身。祖母は沖縄戦を生き延びたが、祖父は戦死した。自身は4歳だった1942年に千葉県船橋市に家族とともに移住し、沖縄戦は経験していない。 フリー記者として65~68年、南ベトナム・サイゴン(現ホーチミン)に住んで米軍などに従軍し、ベトナム戦争を取材。帰国後の69年、朝日新聞出版局の写真部で働き始めた。この年、日米首脳会談で沖縄返還に合意。沖縄では復帰への期待が高まっていた。 石川さんは「自分のルーツである沖縄はどうなるのか」と考え、復帰当日の沖縄の取材を計画。未明から深夜まで、沖縄本島各地の動きを追った。 15日午前0時、那覇市の国… この記事は有料会員記事です。残り1036文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「風化させない」滋賀・信楽高原鉄道事故から31年 現場で追悼法要
滋賀県甲賀市(旧信楽町)で信楽高原鉄道(SKR)とJR西日本の列車が正面衝突し、42人が死亡、628人が負傷した事故から14日で31年がたった。現場近くでは追悼法要があり、SKRの正木仙治郎社長(甲賀市副市長)とJR西の長谷川一明社長が慰霊碑に献花した。 コロナ禍で規模を縮小した法要は午前10時半からあり、遺族や関係者ら7人が黙禱(もくとう)した。事故発生時刻の同10時35分ごろには、SKRの信楽行き列車が警笛を鳴らしながら通過した。 1991年に起きた事故の主… この記事は有料会員記事です。残り173文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
父に捨てられ、「米兵の子」といじめられ 私は誰?たどり着いた答え
八百屋の男性が、たどたどしい英語で話しかけてくる。「ディス トマト イズ ベリーナイス」。比嘉マリアさん(53)はさらりと返した。「まーさぎさーぬトマトやいびーんやーたい(おいしそうなトマトですね)」 4月、沖縄県沖縄市の産直市場。周囲は少し驚いた顔をした。「アメリカ人」が、沖縄の言葉を話している。いつものことだ。 これまで何度も、顔をのぞきこまれ、「英語は話せないの?」と聞かれてきた。 話せないよ。だって、私は、うちなーんちゅ(沖縄の人)だから。 自信を持って、こう答えられるようになるまで、長い時間がかかった。幼い頃から、ずっと悩み続けてきたこと。 私は誰なのか。 ◇ ベトナム戦争下、米軍キャンプ・シュワブ(現在の名護市など)に駐留する米兵の父と、沖縄戦を生き抜いた母の間に生まれた。父のリーという名前にちなみ「リーエ」と名づけられた。 しかし、米国に婚約者がいたという父は、母の出産を受け入れず、生まれる前に帰国した、と聞いた。 ブラウンの瞳と髪、高い鼻。自身の容姿に苦しんだ。 沖縄戦の戦没者らを悼む6月23日の「慰霊の日」が近づくと、気持ちが沈んだ。小学生の平和学習で使われるのは、火炎放射器を持つ米兵の写真。「アメリカー(米国人)は基地に帰れ」と同級生から石を投げられ、ランドセルはぼろぼろにされた。 自分はアメリカ人ではないし、米軍基地にも入れない。 それなのに、皆と一緒じゃない。 ずっと親を恨んでいた。 17歳のころ、母が探し出した父の居場所へ一人向かった。 なぜ私を拒み、家族を置いて… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「にぎわい戻って」 火災の旦過市場、アーケードの通行止め全面解除
4月に大規模な火災が起きた北九州市小倉北区の旦過市場で、最後まで立ち入りが規制されていたアーケード北側入り口部分の通行規制が14日朝、解除された。通路の片側は焼けた店舗のがれきが残ったままだが、鉄製の仮囲いが設けられ、通行人の安全を確保。26日ぶりに開いた「市場の玄関口」から、市民が早速、買い物に訪れていた。 市場を訪れた福岡県新宮町の男性(70)は、「まだ厳しい状況が続くと思うが、復興に向けた第一歩になってほしい」。仮囲いに覆われた菓子店の前で、店主の矢野芳正さん(46)は「焼け跡を片付け、どう再建するか、これからが大変です」。旦過市場商店街の中尾憲二副会長は、「通路の開通を最優先の目標に掲げてきたが、予想より早く達成できてうれしい。今後はがれきの撤去、そして旦過に一日も早く、にぎわいが戻るように取り組みたい」と話した。 火災は4月19日未明に発生… この記事は有料会員記事です。残り284文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「基地のない沖縄を」 1千人が3年ぶり平和行進、復帰50年を前に
沖縄が日本に復帰して5月15日で50年になるのを前に、沖縄県内で14日午前、基地の返還などを求める「平和行進」が始まった。県内外から集まった参加者約1千人(主催者発表)が、米軍普天間飛行場のある宜野湾市の市民会館から沖縄市までの約9キロを歩く。 平和行進は、沖縄平和運動センターや労組などでつくる実行委員会が主催し、今年で45回目。2020、21年は、新型コロナウイルスの影響で中止となり、3年ぶりの開催となった。 出発式で比嘉京子・共同代表(51)が「全国のみなさんと、安全保障についてどうするのか議論をつくっていきたい」とあいさつした。 参加者は3グループに分かれ、雨のなか、歩を進めた。1996年に日米両政府で返還が合意されたにもかかわらず、いまだ残る普天間飛行場のゲート前では「静かな生活を返せ」など一斉に声を上げた。 宜野湾市の小学校に勤務する男性(45)は「子どもたちが校庭の上を飛ぶヘリやオスプレイに慣れてしまわないか心配」と話した。厚木や横須賀に米軍基地のある神奈川県から来た女性(57)は「地元にも基地があり、危険と隣り合わせ。ただ、沖縄の人は、それ以上に危険で、不安だと思う」と基地縮小を願った。 今回で5回目の参加という茨城県の山田恭平さん(35)は「ウクライナ侵攻もあって、戦争には反対」と語った。(西岡矩毅) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
覚えること多すぎ・書類の誤送付… 先輩も失敗した 新卒を救う一言
仕事をバリバリこなす先輩も、今は偉くなっている上司も、新人時代はたくさん失敗をしていた。そんな「新人」を救ったのも先輩の一言。あの時があったから今がある。街で出会った人たちに、救われた一言と新人へのエールを聞いた。 都内の住宅会社に勤める佐藤雅紀さん(44)は新人のころ、間違った内容の案内書を別の顧客へ送ってしまうミスをしてしまった。 気づいた瞬間、「取り返しのつかないことになった」と頭が真っ白に。ミスを知った上司は、佐藤さんを連れて顧客のもとへ。一緒に頭を下げてくれた。 人に迷惑を掛けてしまった……。 大型連休が終わって仕事のある日常が戻ってきました。新社会人にとっては、慣れない業務でミスをするなど、落ち込む時期かもしれません。記事の後半では、食べるスープの専門店「Soup Stock Tokyo」にアルバイトで入社して副社長になった江澤身和さん(41)に、自身の新人時代を踏まえつつ、仕事への向き合い方を聞きました。 申し訳なさでいっぱいだった… この記事は有料会員記事です。残り3367文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
日本記録も持つ105歳アスリートが引退 仲間から花束「重いねえ」
97歳で陸上競技を始め、100歳を超えても走り続けてきた広島県三次市の冨久正二さんが、競技からの引退を決めた。被爆体験があり、現在105歳。一緒に練習をしてきた仲間たちが13日、みよし運動公園陸上競技場で引退セレモニーを開き、これまでの頑張りをねぎらった。 冨久さんは幅広い年代層が競うマスターズ陸上の世界でよく知られた存在だ。腰の治療で通っていた三次市内の整体院で声をかけられて競技を始めた。2014年にあったマスターズ陸上競技選手権の中国大会に初出場。100歳を迎えた17年に60メートルを16秒98で走り、100歳以上の日本記録を出した。100メートル走30秒81の県記録もつくった。 19年の広島大会でも100メートルを1分8秒05で完走してみせた。東京五輪の聖火リレーの走者に選ばれていたが、コロナ禍で感染リスクなどを考慮し、昨年5月のリレー参加は断念した。 地元の三次市で昨年10月に… この記事は有料会員記事です。残り477文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル