【動画】「だから私は運転士になる」=遠藤真梨撮影 路面電車の街、広島。「広電」の愛称で親しまれる広島電鉄の運転士養成所を、昨年5月から8カ月間かけて取材させてもらった。 取材前の打ち合わせで、こんなエピソードを聞いた。広島出身の先輩カメラマン(40代)が幼い頃の話。運転席の真横で進行方向をじっと見つめていると、運転士さんが自分の横にある補助席に座らせて、運転席からの眺めを見せてくれたという。「あれだけは覚えているんだよね」。うれしそうに話す先輩に、広電の広報は「おおらかな時代だったのかもしれません」と苦笑した。 確かに、広電はおおらかな気がする。それに、公共交通機関という言葉ではおさまらない、人のぬくもりがある。 【連載】広島電鉄物語 広島の街をいつも黙々と走り続け、親しまれている広島電鉄(ひろでん)の路面電車。被爆電車をはじめ、その車両にちりばめられた様々な歴史や人の思いを伝えていきます。 信号が変わっても一向に電停から動かず、何事?と思えば、乗車したお年寄りが席に腰を下ろすまで待っていた。電停目がけて走って来る人がいれば、発車せずに待っていてくれることもある。いずれの話も、裁量は運転士にあるということだ。一体、どんな環境で運転士は育つんだろう?そんな思いで、養成所をのぞいた。 「コーヒー飲もか?」教習生の心ほぐす1杯 開講式から2カ月後の7月、路上での運転訓練が始まった。車でいえば「仮免運転」だ。訓練車に乗り込むと、これまでの取材のときと、明らかに雰囲気が違う。教習生の顔がこわばっている。すると、「おーい、カメラ回っとるところで緊張すんなよー。教室のときの顔と違うでー」と教師が発破をかけた。どっと笑いが起こると、教習生たちはいつもの顔に戻った。 運転だけでも大変なのに、その上にカメラが入って緊張していることを察した計らいだった。 交代しながら運転が進み、こなれてくると、運転席に座る同期を冷やかすようになった。そこですかさず、「プレッシャーに負けちゃいけんけんね。悪いやつ多いからね」。冷やかしも笑いに変えて励ます。 講習を終えても、目配りは続く。教習生が養成所の事務所に顔を出すと、すかさず「コーヒーでも飲もか?」と呼び止める。返事を待たずに温かいコーヒーを入れ始め「調子はどんなや?」と近況を聞くと、教習生はぽつりぽつりと悩みを話しだした。 教師はいつも、先回りして教習生たちを包み込んでいた。 印象に残っている場面がある。12月、国家試験を翌週に控えた講習で、教習生の1人が試験結果に響く失敗をしてしまった。その時だ。「今日失敗して良かった。今日失敗するのはなんぼ失敗してもええんじゃけ。責任は養成所の先生が見る」。教師たちは温かく、懐も深い。こんな風に育てられているから、人にも温かく接することができるのだと納得した。 他社の運転士も育てる理由 懐の深さと言えば、もうひとつある。他社の教習生も受け入れて育てていることだ。 今期は、2023年に開業す… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
血つながらなくても「お母さん」 虐待された子らに寄り添い20年
2021年の暮れ、埼玉県東部の一軒家。この家に住む萩原タキ子さん(57)は、浴室で生後8カ月の赤ちゃんの体を洗う女性を見守っていた。 「この前より、手つきが安定している。練習したのね」と萩原さん。女性は「人形を使って、たくさんイメージトレーニングをしてきました」と答えた。 約4時間、おむつの替え方や離乳食の進め方など熱心にメモを取った女性。赤ちゃんを抱く萩原さんに見送られ、1人で帰った。 女性はこの赤ちゃんの受け入れを予定する里親だ。萩原さんは、養子縁組を前提に里親になろうとする人が、スムーズに赤ちゃんとの生活を始められるようサポートする活動をしている。 大半は乳児院を経ずに、産院から直接やってくる。児童相談所から連絡がくれば、いつでも赤ちゃんを預かる。自室のベッドの枕の近くにベビーベッドを並べ、赤ちゃんの世話をする。 萩原さんは言う。「赤ちゃんとの生活を熱望する人でも、突然それが現実になり、24時間ノンストップとなる負担は計り知れない」 里親が子どもを受け入れた後に関係がうまくいかず、関係を解消する「委託解除」も少なからずある。 そういった事態を防ぐため、赤ちゃんの様子や里親ののみ込みも考慮しながら、5~10回の交流を経て、里親宅への1泊の外泊、長期外泊とならしていく。萩原さんは17年からこの活動を始め、これまでに12人の赤ちゃんを里親につないできた。 18年2月からは虐待などで親元で暮らせない複数の子どもたちを預かるファミリーホーム(FH)も自宅に設け、「お母さん」として一緒に暮らしている。 昼夜を問わない子どもとの生活は、激務だ。だが、萩原さんはこう言って笑う。 「年を取って眠りが浅いから、夜のお世話も逆につらくないのよ」 「コインロッカーベビー」に衝撃 血のつながらない子どもたちと過ごすようになったきっかけは、小学生だった1970年代。「コインロッカーベビー」として社会問題化した赤ちゃんの遺棄事件に衝撃を受けた。 保育士になり、2002年に里親に登録。実子3人は当時、小学4年から高校1年だった。でも、迷わなかったという。 保育士の仕事も続けながら… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
禁止令も出た奈良時代のボードゲーム復元 記者もやってみた
奈良時代、全国の下級役人らを熱狂させたボードゲームがあった。名は「かりうち(樗蒲、加利宇知)」。夢中になるあまり国が傾くことを恐れたのか、当時禁止令が出されたレベル。古文書の記録や遺物がわずかに残るだけで謎に包まれていたやばいゲームを、奈良文化財研究所(奈良市)が現代によみがえらせてしまった。しかも、全国的な普及をもくろんでいる。 平城京跡から穴の空いた皿、これは! かりうちは、平安時代の辞書「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」で、「樗蒲」の項目に「和名加利宇知」という遊びと紹介されている。万葉集では「切木四」「折木四」を「かり」と読み、棒の組み合わせを示すような言葉遊びも登場。「うつ」は投げるという意味があることから、「かり」と呼ばれる木の棒を使う遊びがあったのではと考えられていたが、詳細は不明だった。平安時代に編まれた、古代の法典の公的な解説書「令義解(りょうのぎげ)」では、かりうちはすごろくとともに賭博として禁止されている。政を地道に支える役人が盛り上がれる機会として、財産をつぎ込み身を持ち崩してしまうような事態があったのかもしれない。 復活への芽生えは2015年。土器研究が専門の小田裕樹・奈文研主任研究員(41)が平城京跡で発掘された、規則的に並んだ穴の開いた皿を「かりうちに使われた盤ではないか」と発表したことから始まった。 小田さんは、古代の食事作法を研究するため、箸の先が当たってついた傷を探してその皿を見た。とがった物で意図的に付けられたとみられる点が、円の周りと円を6等分するようなライン上に並んでいた。 同様の点が付けられた物が、秋田、三重、新潟など各県の出土品にもあることがわかった。小田さんは「なぜ違う場所で同じような物が見つかるのか?」と疑問を抱く。 そんなとき、箸の研究書の挿絵に、似た形を見つけた。韓国で現在も遊ばれる、棒を投げて進む数を決める、すごろくに似たボードゲーム「ユンノリ」の盤面だった。ユンノリの棒の組み合わせには名前がつけられ、万葉集の研究者の間では、万葉集の言葉遊びとの関連が注目されていた。例の皿は「かりうち」の盤面らしいという結論に達した。 研究所内で最初に発表したとき、小田さんは「これは遊びとして復元できます!」と高らかに宣言した。周囲は冗談と思って笑っていた。小田さんは本気だった。韓国で使われているユンノリの道具を買い集め、研究した。だが、ゲームをつくるノウハウがなく、かりうち復元にはなかなか至らなかった。 行き詰まっていた小田さんに時代の追い風が吹いた。18年に文化財保護法が改正され、保存、保護だけでなく「活用」も重視されるようになってきた。かりうち研究は奈文研内での実践例として、20年度からチームでの復元プロジェクトが始まった。 奈良時代の人たちが夢中になった「かりうち」。でも、ルールの記録はありません。プロジェクトチームは知恵を絞り、ついに大会が開かれました。記事後半で紹介します。 かりうちプロジェクトチーム… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
東京・東村山で住宅火災 4人死亡、東京消防庁
2022年5月9日 5時46分 9日午前3時15分ごろ、東京都東村山市多摩湖町1丁目の2階建て住宅から出火、約80平方メートルが焼けた。東京消防庁によると、住宅の中から女性1人、男性3人が救助されたが、全員の死亡が確認された。 この家には成人とみられる4人が住んでいるがいずれも連絡がついておらず、警視庁が詳しく調べている。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
ウクライナから避難した両親、残った妹 思いが交錯した「母の日」
ロシアによるウクライナ侵攻が続くなか迎えた「母の日」の8日、横浜市に住むアマウリ・マリーナさん(39)は、日本に避難してきている母親のイリーナさん(61)に花束を渡した。「今のような幸せな暮らしがずっと続いてほしい」とマリーナさんが話すと、イリーナさんも「ありがとう。すごく幸せ」と返し、抱き合った。 ロシアからのウクライナ侵攻をニュースで知ったマリーナさんは、3月初旬から、家族や友人を日本に避難させるための募金活動を続けている。集まった資金で電子チケットを買い、3月末に両親を日本に避難させた。それ以降は、横浜市の自宅で両親とともに暮らしている。 マリーナさんの両親は、欧州… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「八王子なめんな」と因縁、男2人が車奪って逃走中 強盗事件で捜査
遠藤美波2022年5月8日 15時44分 8日午前10時10分ごろ、東京都八王子市中町の路上で、10代男性から「男2人に顔を殴られ、相手に車を盗まれた」と近くの交番に通報があった。男性は乗用車を奪われたといい、警視庁が強盗事件として逃げた2人の行方を追っている。 八王子署によると、男性がJR八王子駅近くの路上に車を止めて車外にいたところ、近づいてきた20代くらいの男2人に「クラクション鳴らしたよな。鍵をよこせ」「八王子なめんじゃねえぞ」などと因縁をつけられ、顔を数発殴られた。男性が車の鍵を差し出すと2人はそれを奪い、男性の車に乗って逃走した。男性は署に対し「クラクションは鳴らしていない」と説明しているという。 男性の車は約4時間半後の午後2時40分ごろ、八王子市内の路上で発見。逃走した2人とは別の男2人が乗車しており、署が経緯を詳しく聴いている。 署によると、逃走した2人のうち1人は茶髪で身長約165~170センチ。もう1人は黒髪で身長約180センチ。(遠藤美波) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
米軍の飛行機部品使い兄は弁当箱を 統治下でチャンプルーは広がった
沖縄の日本復帰から5月15日で50年。復帰前、米軍統治下の暮らしはどのようなものだったのか。那覇市の琉球料理研究家、松本嘉代子さん(83)に聞きました。 沖縄戦で、町は戦場となりました。壊滅的な打撃を被り、焼け野原が広がっていました。 10坪ほどの小さな畑でジャガイモなどを育てましたが、それだけでは食料はとても足りません。 命綱は、週に何回かある米軍の配給。缶詰や粉ミルクなどが地域の集会所に届くのですが、それで飢えをしのぐ日々です。 【特集】沖縄を語る、沖縄から考える 2022年5月15日、わたしたちは沖縄の日本復帰から50年を迎えます。さまざまな人に聞きました。あなたにとって沖縄とは。沖縄を通じて思い、考える意味とは。 トラックで近くを通った米軍の兵士に、子どもたちが「ギブミー」と叫ぶと、よくお菓子を投げてくれました。中には手製の日本人形を渡し、食べ物と交換していた主婦も。配給や物々交換で暮らしが成り立っている時代でした。 飛行機の部品から兄がつくってくれたのは ジュラルミン製の飛行機の部… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
コロナ禍の高校生活 「この夏、応援したい君」に応援されている私
渋谷瑠良さん(17) 夏の甲子園のキャッチフレーズでグランプリを獲得した高校生 〈この夏も、応援したい君がいる。〉 第104回全国高校野球選手権大会のキャッチフレーズコンクールで、応募6965点の中からグランプリに輝いた。 授業で募集の方法を知り、締め切りが1週間後に迫ったある日。自宅で、ふっと頭に浮かんだのがこのフレーズだった。スマートフォンに書き留めた。 夏になると、いつも祖父の家で流れていた甲子園の中継を見て応援してきた自分自身の姿を、そのまま表現した。 群馬県高崎市の高崎商大付高… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
船内捜索の鍵にぎる「飽和潜水」 ガスで加圧、命のリスク抱え海中へ
北海道・知床半島沖の観光船沈没事故で、海上保安庁は海底で見つかった船の内部に乗船者がいないかどうかの確認作業を続けている。 発見場所の水深が深く海保の潜水士では潜れないため、今後は高い水圧にも耐えられる「飽和潜水」という方法で捜索にあたる方針だ。 通常の潜水とはどう違うのか。飽和潜水の経験がある元海上自衛隊員や専門家に話を聞いた。 沈没した観光船「KAZUⅠ(カズワン)」が見つかったのは、知床半島沖の水深約120メートルの海底だ。 海保の通常の潜水士が潜れる深さは40メートルまでで、精鋭の特殊救難隊員でも60メートルまでとされる。特殊な装備や対策をしなければ、水圧に体が耐えられないためだ。 1日かけてタンクで加圧、そのまま食事も これまでは、海保や海上自衛… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「神保町のランドマーク」三省堂本店、一時閉店の夜 レジには大行列
東京・神保町のランドマークである「三省堂書店神保町本店」が8日、一時閉店した。この場所で営業を始めて141年。午後8時23分、最後の客が退店し、いったん幕を下ろした。ビルは解体され、6月からは仮店舗で営業する。 多くの書店が集まる神保町で最も大きい同店は、141年間、同じ場所で営業し続けてきた。現在の社屋は4代目で、神田神保町1丁目1番地にあるランドマークとして知られてきた。 三省堂書店はコロナ禍による打撃を受け、同社によると、三省堂全体で2割の客が減った。本店が入る築41年のビルは設備の老朽化も進み、建て替えとともに一時閉店を決めたという。 この日、レジには本をまとめ買いする客たちが行列を作り、店員が「最後尾」のプラカードを掲げていた。店の前は、スマートフォンをかざして建物を写真におさめる人たちであふれた。 閉店後、店の前で亀井崇雄社長が感謝のあいさつを述べると、店の前に集まった数百人の客から拍手が送られ、「141年間ありがとう!」という声も上がった。 現在のビルは解体工事に入り、6月1日から少なくとも3年間、約300メートル離れた小川町の仮店舗で営業する。規模は現在の4分の1になる。 神保町に住み、高校3年生の娘(17)と最後の買い物に来ていた女性(47)は、「神保町と言えば三省堂。本当にぜいたくな本屋だった」と惜しんだ。娘が生まれてからここで買った児童書は100冊を下らないという。医療事務の仕事柄、この店で専門書を探しては、膨大な品ぞろえに助けられ、コロナ下でも知識を更新できたという。「戻ってくるのが待ち遠しい」と親子で口をそろえ、店を後にした。(田渕紫織) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル