懸命に働いていても、一つ歯車が狂うと、人生が暗転してしまう。 千葉県流山市の水野哲也さん(76)の場合は、病気がちな妻を支えきれず、45歳で離婚したことだった。 育児で仕事を続けられず、おそらく50以上の会社で働いたという。自身のけがや病気、人間関係もあり、定職に就けなかった。2人の子を育てながら、多いときで100万円の借金を抱えた。24時間勤務の警備員になると、夜ご飯を作れず、中学生と小学生だった子どもに千円札1枚を渡した。2人はファミレスでお子様セットを連日頼み、出入り禁止になった。子どもの成人後には、腰の病気で警備員の仕事もできなくなり、2013年に生活保護の受給を決めた。 「離婚してみんなを不幸にしてしまった。僕の人生は最初から最後まで全部後悔。貧困さえなかったら、人生は違っていたかもしれない」 そんな水野さんが最後に頼ったのが生活保護だった。社会のセーフティーネットと言われる。だが、その頼みの綱の生活保護の基準額を、国は13年から、デフレ調整を理由に段階的に引き下げた。水野さんはこの決定の取り消しを求め、全国29地裁で訴訟を起こした一人だった。 訴えは届いた。千葉地裁が5月下旬、減額決定を取り消す判決を言い渡したのだ。ただ、全国の裁判所では判断が分かれている。現時点では22の一審・控訴審判決のうち、11地裁で国の違法性が指摘され、10地裁と1高裁で適法とされた。 訴えが認められなかった男性を取材したときの言葉が印象に残っている。 前任地の金沢市で会った元受給者の60代男性だった。家族の難病治療を理由に、大手建設関係の会社を退職。その後に離婚し、住み込みで工事現場の仕事を始めたが、心臓の病気が見つかって働けなくなった。 年収が1千万円を超えた時期もあった。生活保護には偏見すらあった。そんな自分が、自力ではどうしようもない事情だったとしても「まさか生活保護を受けることになるなんて」と痛感したのだという。 憲法25条の「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する生活保護。誰しもが何かをきっかけに受給する可能性がある。自分だって、いつ、どんな事情で生活保護を受けることになるかは分からない。私の中にも無意識の偏見があるかもしれない。だからこそ、想像力を持って取材を続け、社会と共有したい。(千葉総局 マハール有仁州) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
暗闇で助け求める患者、無力だった私 艦砲射撃受けた製鉄所周辺
終戦が迫っていた1945年の夏。岩手県釜石市は、連合国軍の艦隊から2度の艦砲射撃を受けた。釜石市に住む佐々木郁子さん(93)は当時、看護師の見習いとして救護活動にあたった。「生き地獄」だったという「その時」を克明に語ってくれた。(構成=東野真和) 7月14日のこと「鮮明に覚えています」 7月14日。ええ、鮮明に覚えています。 私は15歳。看護師の見習いとして、釜石製鉄所の病院で働いていました。 早朝5時ごろ、空襲の警戒警報が発令されました。 私は家から病院にかけつけ、当直の先輩看護師と、入院患者を防空壕(ごう)の中に避難させて、外来患者の診療にあたりました。 正午間近のころでした。「敵機襲来」の知らせを受け、私たちも防空壕に入りました。間もなく砲弾が落ちてきました。「ガーン」「ドーン」とものすごい炸裂(さくれつ)音で地面がぐらぐら揺れました。あとから思えば、それが製鉄所を標的とした艦砲射撃の始まりでした。 それから2時間、恐怖に震えながら同僚と励まし合って、耐えました。警報が解除された時に見た同僚の顔は、表情を失い、憔悴(しょうすい)しきっていました。 外に出ると、製鉄所周辺は廃… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
殺処分されたヒョウと飼育員の苦悩 子どもたちに伝えるアニメを制作
宮坂知樹2023年8月13日 14時05分 太平洋戦争中に殺処分された動物と飼育員の姿を描いた短編アニメを、天王寺動物園(大阪市天王寺区)が今月から上映している。終戦から78年を迎え、身近な動物園の悲話を通じて子どもたちに戦争を知ってほしいと、大阪国際平和センター(ピースおおさか、同市中央区)が制作した。9月10日まで。 天王寺動物園では戦時中、エサ不足や空襲で多くの動物が死んだ。1943年9月~44年3月には、ヒョウやライオン、トラ、ホッキョクグマなど10種26頭が、「空襲でおりが壊れて逃げ出す危険がある」として殺処分された。 約20分間のアニメ「どうぶつたちのねがい」は、殺処分されたヒョウと飼育員・原春治さんとの実話を基に、ピースおおさかが昨年制作した。過去に動物園が作って所蔵していた紙芝居から題材を得た。 戦時中、毒入りのエサを食べた猛獣が次々と死ぬ中、原さんが我が子のように育てたヒョウはいつまでもエサに手をつけなかった。やむなく、ロープで首を絞めて殺すことに。自ら手をかけられなかった原さんに代わり、ヒョウは別の飼育員に殺された。おりには、もがき苦しんだ爪痕が残っていた――。そんなストーリーだ。 ピースおおさかの田中優生専門職員は「戦争の犠牲になったのは人間だけではない。身近な動物園の話を通して、子どもたちに戦争について考えてほしい」と話す。 動物園では8月11日~9月10日、企画展「戦時中の動物園 ~どうぶつたちのねがい~」を、学習施設「TENNOJI ZOO MUSEUM」で開催。殺処分された動物の剝製(はくせい)などを展示し、アニメを午前9時半~午後4時45分(ナイトZOO実施日は午後8時45分まで)に常時上映する。問い合わせは同園(06・6771・8401)へ。(宮坂知樹) 有料会員になると会員限定の有料記事もお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
終戦後、7カ月も続いた学童疎開 気丈な子どもの絵日記ににじむ不安
戦争が終わったのは3カ月前。暑い夏が過ぎ、季節はもう冬になった。 東京の親元を離れ、この寺でみんなで暮らし始めてから1年以上になる。 「このごろは、しもがおりて寒さがきびしくなって來ましたが、その中を私たちは元氣よく毎日のやうにかけ足をしてをります。(中略)二十五日の日はお汁粉をたべました。とてもあまくておいしいお汁粉でした」(4年女子、原文のまま) 「この前とりをころして村のおぢさんに、にくだんごうおこしらへました。(中略)私達は勉強したり運動したりしていますから御安心ください」(4年女子、同) 1945(昭和20)年11月29日。片柳村(現・さいたま市見沼区)の万年寺(ばんねんじ)で、36人の子どもたちが鉛筆を手に絵日記を書いていた。東京都の「阪本国民学校」の2~5年生だ。 「さつま芋掘をしました。そばの取入れもしました。(中略)遠足も行きました。では僕達は三月までがんばります」(5年男子、同) 国民学校は今の小学校にあたる。同校は44年8月から、都市部の子どもを地方に移動させる「学童疎開」をしていた。 戦後も子どもたちが寺にとどまっていた理由は、どんなものだったのか。 「万年寺だより」と題されたこの絵日記は、1日分だけが冊子にまとめられ、寺に今も残っている。日記を読み解いた元高校教諭の関原正裕さん(70)=さいたま市=は、授業の一環で先生が書かせたとみる。 「引き取り手が見つからない」状態だった可能性も 「日記を描いたのは、その時点で親や身近な親戚の引き取り手が見つからず、疎開を続けざるを得なかった子どもたちだったとみられます」(関原さん) 45年8月15日、日本は敗… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「今年も来たよ」2歳から登る御巣鷹山 9歳で逝ったおじへの思い
日本航空(JAL)のジャンボ機が1985年に墜落し、乗客・乗員520人が亡くなった事故は12日、発生から38年を迎えた。全国から集まった遺族らは朝から、墜落現場となった「御巣鷹の尾根」(群馬県上野村)に慰霊の登山へと向かった。 9歳で亡くなった美谷島健さんのめいにあたる芽生(めい)さん(10)は、葉っぱを拾ったり、バッタを探したりしながら御巣鷹の尾根を登った。墓標の前では、シャボン玉を飛ばし、線香を上げた。 亡くなった「健ちゃん」は父・真さん(51)の弟で、甲子園に行くため一人で飛行機に乗って事故にあった。「とても勇気のある子だったんだと思う」と想像を膨らませる。 途中、「健ちゃんってどんな子だったの?」と尋ねると、真さんは「賢くて、小生意気な弟だと思っていたな」と笑った。それを聞き「私に似ているかも。友達だったらけんかしたかな」とつぶやいた。 1歳の時は両親におんぶされ、2歳からは自分で尾根に登っている。「健ちゃんに、今年も来たよと言えてよかった」と話した。 帰りは、同じ事故の遺族の若本詩葉(しよん)ちゃん(5)と手をつないで下りた。詩葉ちゃんと会うのは昨年の慰霊登山以来、1年ぶりだ。 まだ事故のことをよく知らない詩葉ちゃんに「昔、飛行機がこの山に落ちてたくさんの人が死んじゃったから、皆でお祈りをするために来たんだよ。まだ小さいから、分からないかな?」。来年もまた、教えてあげるつもりだ。(山田みう) ◇ 中村晴男さん(80)は墓標に着くと持ってきた缶ビールを開け、紙コップになみなみと注いだ。「今年も来たよ」 中村さんの姉の夫、佐田弘さん(当時53)は、東京から単身赴任先の大阪に帰る途中で事故に遭った。 中村さんは弘さんについて「とにかく面倒見が良く、大酒飲みだった」。中村さんとは気が合い、二人で飲みに行くこともたびたびあった。仕事の愚痴をこぼした時は親身になって聞き、アドバイスをくれた。「人間関係を大切に」とよく話していたという。「一緒に新幹線に乗るとビールの空き缶が窓辺に十数本も並んだ」と笑う。 妻の和子さんは1週間ほど前に体調を崩して今年の登山は断念した。来年もビールを飲みに来るつもりだ。(山田みう) Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
ライフジャケットがあっても体は沈む… 海保が教える正しい着用方法
本格的な夏のレジャーシーズンを迎え、第3管区海上保安本部が記者向けにライフジャケットの着用体験会を開いた。3管本部管内では、昨年までの過去5年間でマリンレジャー中の死者・行方不明者の約9割が救命胴衣の非着用者だったという。どうすれば、事故から命を守れるのか――。 7月下旬、横浜市中区の横浜海上防災基地にある訓練に使うプール。3管本部の担当者から各社の記者に向けて説明が始まった。 「ライフジャケットはしっかりと体に合わせることが大切です」 最初に着用したのは、成人男性でも浮くのに十分な浮力7・5キロのチョッキ式のもの。肩や腹部にベルトがついており、体にフィットするよう一番下の股ベルトから順に締めていく。 着用後、記者(24)も勢いよくプールに飛び込んでみた。最も深いポイントで水深2・5メートル。足が着かないため一度は沈んだが、ライフジャケットの浮力で一気に水面に持ち上げられた。全身の力を抜き、緊張しながらも身を任せることができた。 ただ、時間が経つと肩付近に隙間ができてしまい、水面から顔を出し呼吸するのに苦労した。ライフジャケットのサイズが記者の体には大きかったようだ。 肩部分のベルトも緩んでしまっていたが、「水中でベルトの調整は難しい」と担当者。「体に合ったものを正しく着ないとライフジャケットだけが浮いて体は沈んでしまう。マリンレジャーなど活動を始める前にしっかりと確認することが大切」と説明した。 次に一回りサイズが小さい浮力6キロのものを着用。股ベルトから順にベルトを締めていき、再び入水した。担当者から「楽な姿勢で」とアドバイスされたとおりに浮いてみると、40センチの波を人工的にたてたプールの中でも安心して浮くことができた。 3管本部管内では、2018~22年の海水浴や釣りなどレジャー中の死者・行方不明者は252人にのぼり、219人(約87%)がライフジャケットを着ていなかった。非着用だった死者のうち、約9割が溺死(できし)だったという。 より薄く行動しやすいタイプも ライフジャケットには記者が… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「はだしのゲン」を講談で37年 神田香織さん、歴史に命を吹き込む
太平洋戦争の体験者が減る中、あの経験をどう語り継いでいくのか。原爆被害を正面から見つめた漫画「はだしのゲン」を講談で語っている講談師の神田香織さんに話を聞きました。 ◇ 原爆被害を正面から見つめた中沢啓治さんの漫画「はだしのゲン」を、講談に仕立てて37年間語り続けています。 39年前、前座から二ツ目に昇進したころ、サイパンでバンザイクリフを見て戦争の惨状に鳥肌が立ち、戦争を語りたいと思いました。その後、取材をかねて広島の原爆資料館を訪れた際、売店にあった「はだしのゲン」を全巻買って再読しました。そこに描かれたエネルギーに改めて圧倒されたのです。 原爆被害や戦争をつづった本や映像はたくさんありますが、講談で「語る」ことの意味は何か。それは固まってしまった歴史に命を吹き込むこと。生身の私が語勢を込めて歴史を語れば、聞く方の眼前に今まさにそれが起きていることとして受けとめてもらえるのではないか。やけどで皮膚が大きくむけて垂れ下がる、腹から出た腸を引きずって歩く。そういう現場の目撃者になってほしいのです。 講談でやるにあたり、被爆者… この記事は有料記事です。残り787文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「火の高さが2倍」「燃えた芯が飛ぶ」 お盆のロウソクの注意点は
コロナ禍があけて初めて迎える今年のお盆。仏壇やお墓参りでロウソクをともす機会が増えるこの時期、ロウソクを立てる燭台(しょくだい)に水気が残っていたり、短いロウソクを継ぎ足して使ったりすると、「火災になるケースがある」と消防関係者が注意を呼びかけている。 大阪府枚方市の一般住宅の仏壇付近で、火災が発生した。枚方寝屋川消防組合の隊員が駆けつけると、仏壇から20~30センチほど離れた障子が燃えていた。2013年2月のことだ。 火元は、仏壇に置かれたロウソクしか考えられなかった。 「燭台はいつもどうしていますか」(隊員) 「洗って乾かしてから使っています」(住民) ロウソクの芯が飛ぶ 燭台を消防本部に持ち帰って調べてみると、ロウソクを突き立てる金属部分の根元がさびていて、その付近に水分が残っていることがわかった。 隊員らは約600回、燭台に… この記事は有料記事です。残り547文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「役員のなり手が…」高齢化や賃貸増で、広がる理事会なしマンション
分譲マンションで住民が高齢化したり、賃貸に出す人が多くなったりしたことで、管理組合の理事会役員のなり手が確保できないケースが増えています。そこで、理事会に代わってマンション管理会社が維持管理の中心を担う「第三者管理者方式」という仕組みが広がっています。現状や課題を取材しました。 「これから本当に管理していけるのだろうか」。東京都内の築30年ほどの分譲マンションで理事長を務める70代男性は困り顔だ。理事会役員のなり手がいないからだ。理事は輪番制だが断られることが多く、最近定員を4人から3人に減らしたという。 約50戸あるうち、30戸ほどは所有者が賃貸に出している。自ら住んでいる所有者も、主に50~60代の現役世代で仕事が忙しく、管理への関心は薄い。理事長は「修繕積立金と管理費さえ払っておけばいい、と(理事会のことは)ほったらかしだ」ともらす。 賃貸増えれば継続困難…悩む理事長 昨秋、設備の保守点検などを… この記事は有料記事です。残り1124文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
旧ソ連軍侵攻、樺太「九人の乙女」の悲劇 減りゆく証言者
終戦直後、日本領だった南樺太(現サハリン南部)へ旧ソ連軍が侵攻し、自ら命を絶った「九人の乙女」。歴史の教訓を胸に刻む平和祈念祭が、今年も乙女たちの命日となる20日、北海道稚内(わっかない)市で営まれる。2年後の戦後80年を待たずに、悲劇を語り継いできた証言者が次々と世を去っている。 1945(昭和20)年8月20日、南樺太西岸の真岡(まおか、現ホルムスク)にあった真岡郵便局の電話交換手の女性たち「九人の乙女」が、ソ連兵による陵辱を恐れて、青酸カリなどを用いて自決した。 「乙女」たちと同じ職場だった栗山知ゑ子さんは昨年8月30日、94歳で亡くなった。北海道和寒(わっさむ)町から約210キロ近い道のりを毎年のように平和祈念祭に駆けつけ、元同僚たちの遺影が並ぶ祭壇に手を合わせてきた。コロナ禍で縮小開催となった20年以降もマスクをして参列したが、昨年は欠席し、体調が心配されていた。 長男敏秀さん(71)によると、栗山さんは昨年初めに膵臓(すいぞう)がんとわかり入院。いったん退院したが、自宅で腰を骨折して再入院し、転院先で息を引き取った。「最初はちょっとした発熱だったんです。昨年も平和祈念祭に行きたかったろうが病院のベッドの上。面会も制限され、思いを聞くことはできなかった」と敏秀さん。 栗山さんは28(昭和3)年4月11日、南樺太の真岡に近い漁師の家に生まれた。小学生の時に父を亡くし、再婚した母親と真岡に移り住んだ。8人きょうだいの次女で、家計を助けるため、16歳で真岡郵便局の電話交換手になった。44年、終戦の前年だった。 双方の電話回線を手作業でつ… この記事は有料記事です。残り1158文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル