2023年8月12日 13時50分 非常に強い台風7号は12日午前、日本の南をゆっくりと北西に進み、15日ごろには強い勢力を保ったまま本州や四国付近にかなり接近する。気象庁によると、台風の接近に伴い、太平洋側を中心に14~15日にかけて大雨になる恐れがある。 同庁によると、台風7号は12日午前9時時点で小笠原諸島・父島の北にあり、暴風域を伴ったまま北上を続けている。中心気圧は950ヘクトパスカルで、中心付近の最大風速は45メートル。14日以降、太平洋側を中心に大雨となり、進路によっては警報級の大雨になる可能性がある。 14日朝までの24時間の予想雨量は多い所で、関東甲信と伊豆諸島、東海で50~100ミリ。その後の24時間では東海200~300ミリ、近畿100~200ミリ、四国100~150ミリ、関東甲信と伊豆諸島で50~100ミリの予想となっている。 JR東海は12日、台風7号の接近に伴う東海道新幹線の計画運休について、13日は実施しないと発表した。14~16日は計画運休や長時間にわたる運転見合わせなどの可能性があるとしている。 管内の在来線も14日午前までは計画運休をしないが、14日午後以降は関西線、紀勢線、参宮線、名松線で計画運休をする予定だとしている。 有料会員になると会員限定の有料記事もお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
一人、また一人といなくなった友 旗手を務めた学徒兵が感じたこわさ
「自分たちは、捨て石の世代だった」 仙台市太白区の老人ホームで暮らす川島東(のぼる)さん(99)は、青春時代をそう振り返る。 夢を抱いて入った大学生活は、戦争一色に塗り込められ、友たちの多くが卒業証書を手にすることなく、戦地で命を落とした。 川島さんが語る。 東京が初めて空襲に襲われたのが、1942年4月です。それが境でしたね。 まちは戦時体制に染まってゆく。 私は政治・経済を学ぼうと、川崎市の実家から東京・神田の専修大学に通っていました。 講義に代わり、軍事教練が増えてゆく。スポーツは球技がなくなり、射撃や柔道や剣道といった体育訓練が強化された。学生食堂のライスカレーは、雑炊に変わりました。 そして43年、文科系学生の徴兵猶予が停止された。 学徒出陣です。 その年の10月21日、明治神宮外苑競技場に関東一円の大学生数万人が集められ、文部省主催の出陣学徒壮行会が開かれました。 土砂降りの中、「海ゆかば」の大合唱 朝はまだ小雨でした… この記事は有料記事です。残り1282文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
焼け跡に1人、野草も食べた12歳 戦争孤児だった海老名香葉子さん
終戦後の東京。孤児となった当時12歳の少女が、空襲で焼け落ちた自宅の跡地にひとりぼっちで座り込んでいた。エッセイストの海老名香葉子さん(89)だ。 現在の東京都墨田区にあった生家は、江戸時代から続く釣りざお職人の家だった。1945年3月10日の東京大空襲で、父母と2人の兄、弟、祖母の6人の命が奪われた。 焼け残ったのは入り口の石段だけだった。焼け跡を掘ると、家族の茶わんや布団の切れ端など、懐かしい品が出てきた。 海老名さんは戦後、都内のおば夫婦のところに身を寄せていた。 住まいは周囲をトタンで囲ったバラック小屋だった。 近くの井戸から水を運び、水がめにためておくのが海老名さんの日課になった。 極度の窮乏のなかで、やさしかったはずのおばの態度は一変していた。 ときには怒鳴られ、モノを投げつけられた。「お前なんか死んでくれればよかった」と罵声を浴びたことも、一度や二度ではなかった。 「自分は『余計な子』なんだから」と心を殺し、ひたすら耐えた。 はやく父ちゃん母ちゃんのいるところに行きたい――。時折そんな悲痛な思いに突き動かされ、自宅の焼け跡に向かった。 「私の家、私の家」とつぶやきながら、歩いた。 「父ちゃん、母ちゃん、お空の上にいるなら、私も一緒に連れていって」 心の中で叫んで、焼け跡で泣いた。死んでもここを離れたくないと思った。 空腹でふらふらになると、ハコベやアカザなどの野草もつんで、食べた。 でこぼこの鍋を拾って、壊れた水道管からもれていた水をいれた。煙が立っている場所に行って「火をください」と頼み、木ぎれに火をつけてお湯をわかした。そこにヤミ市で買ったふすま粉をいれ、野草を煮た。味はなにもなかった。 冷え込みが厳しかったある日のことだ。自宅の石段に座って凍えていた。 「こんなところにいたら凍え死んじゃうよ」 復員兵らしき男性が声をかけ… Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
しまなみ海道で乗用車が正面衝突、2人重傷 周辺では渋滞も発生
2023年8月12日 14時19分 愛媛県警高速道路交通警察隊によると、12日午前10時半ごろ、同県今治市上浦町の西瀬戸自動車道(しまなみ海道)上り線の大三島インターチェンジ(IC)近くで、上り線を広島県側に走っていた乗用車が対向車線にはみ出し、乗用車と正面衝突した。 同隊によると、6人がけがをして今治市内の病院に運ばれ、うち高齢の女性2人が重傷。命に別条はないという。 この事故の影響で、上り線の伯方島―大三島IC間が4時間近く通行止めとなり、連休ということもあって激しい渋滞が発生した。 有料会員になると会員限定の有料記事もお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
亡き父の墓標前に母とビデオ通話 日航事故遺族がリモートで慰霊登山
吉村駿2023年8月12日 21時00分 520人が亡くなった日航機事故から38年がたった12日、多くの遺族が現場となった御巣鷹の尾根へ登るなか、リモートで慰霊登山をする人もいた。 東京都中央区の会社員山本昌由さん(43)は、事故で父の謙二さん(当時49)を亡くした。この日は、スマートフォンのビデオ通話機能を使って、母の啓子さん(78)と長女の春乃さん(8)らに父の墓標を見せた。「木がいっぱい生い茂る山の奥です。ここからみんなのことをずっと見てくれているよ」 大阪府八尾市に住む啓子さんは足が悪く、6年前を最後に慰霊登山に参加できていない。今年、尾根では衛星通信環境が整い電波が入るようになったため、現場に来なくても父の墓標の様子を見せることができた。 コロナ禍のため、山本さん自身も4年ぶりに尾根に登った。「『38年が過ぎても父のことは忘れていないよ』と伝えることができて良かった」。スマホの画面上で母はうれしそうな表情だったといい、「母にもこの日に現場を見せられて良かった。今後遺族の高齢化がさらに進むので、リモートで慰霊登山ができるのはありがたい」と話した。(吉村駿) 有料会員になると会員限定の有料記事もお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「負の遺産は伝承しないと」 87歳で尾根へ登り続ける柳田邦男さん
ノンフィクション作家の柳田邦男さん(87)は毎年、1985年に日航機が墜落した御巣鷹の尾根に登り続けている。「現場に来ることは自分の習慣になっている。8月12日の慰霊登山も体に染みついている」。妻で絵本作家のいせひでこさん(74)も、この事故の遺族についての絵本を作っている。夫婦で事故を見つめてきた2人はこの日、杖を片手に1歩1歩登った。 NHK記者時代から命や安全をテーマに取材を続けてきた柳田さん。JALの安全について考える社外機関で座長を務めるなど、この事故とは深く長くつながってきた。 東京都在住だが、9日には広島市で講演し、11日に上野村へ入った。12日、登山道では進むたびに「柳田先生、こんにちは」と遺族に声をかけられた。「送ってくれた新タマネギおいしかったよ。ありがとう」と返事する。カメラで遺族の写真を撮ったり、連絡先を知らない人にはノートに名前や電話番号を書き残したりしてもらう。 「人間にも自然にも命の営み」 「平和、安全、そして安心を… この記事は有料記事です。残り585文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
リモートでの慰霊登山も可能に 日航機墜落、38回目の夏の御巣鷹
有料記事 吉村駿 山田みう 角詠之2023年8月12日 21時30分 日本航空(JAL)のジャンボ機墜落事故から38年となった12日、群馬県上野村にある墜落現場「御巣鷹の尾根」には、遺族ら272人が慰霊登山に訪れた。コロナ下で参加者は4割前後減っていたが、コロナ前と同じ水準に戻った。 ふもとの「慰霊の園」であった追悼式典では墜落時刻の午後6時56分にあわせ、犠牲者数と同じ520本のろうそくに火がともった。高校時代の親友・富田真理さん(当時21)を失った甲府市の会社員若月明子さん(59)は「風化するのが一番良くない。忘れられるのだけは避けたい」と話した。 JALの赤坂祐二社長は式典で「二度とこういう事故が起きないよう、今までも、これからも、しっかり努力を続けていく」と話した。 スマホでビデオ通話も この日の慰霊登山では、周辺… この記事は有料記事です。残り282文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
19歳男子大学生、溺れて死亡 「鳴き砂」の海水浴場 京都・京丹後
2023年8月12日 21時42分 12日午後3時半過ぎ、京都府京丹後市網野町掛津(かけづ)の琴引浜掛津海水浴場で、同府京田辺市の男子大学生(19)が溺れた。 京丹後署によると、一緒に来ていた大学生の友人が周囲に助けを求め、近くにいたサーファーが海底に沈んでいた大学生を見つけて救助したが、搬送先の病院で死亡が確認された。 京丹後市観光公社によると、同海水浴場は遠浅で、踏むと音がする「鳴き砂」で知られる。 有料会員になると会員限定の有料記事もお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
ハイカーを誘う珍奇貴重な高山植物 盗掘に目を光らせる森林官
水分を多く含む潮風が、ハイカーの頰を打ちつける。日本の最北端、北海道稚内市の西に位置する礼文島。島北部のゴロタ岬に続くトレイル(小道)は未舗装で、一度雨が降るとぬかるみになる。それでも、左右に広がる高山植物のパッチワークがハイカーの心を鼓舞する。 【撮影ワンポイント】礼文島トレイル 風景をくっきりと写そうと、レンズの絞り値はf16から始めた。木々が少なく、遠くまで見通せる大地の広大さ。丘陵の標高差に感じる迫力。海と空の広がり。これらを追体験して欲しかった。難点は肖像権。訪れた人に撮影許可を得ては、道を先回りしたり後戻りしたりして絶景とともに撮影した。ご協力に感謝します。(角野貴之) 観光客が主に訪れるのは、南部にある標高225メートルの桃岩展望台。多くのハイカーがここからトレイルに入る。海の向こうに見えるのは、利尻島の利尻富士。8月はツリガネニンジン、トウゲブキ、チシマワレモコウ、イブキジャコウソウ、下旬からはリシリブシ、ハンゴンソウ、ヤマハハコ、チシマリンドウなどが島内各地で見頃だ。 うたわれた「世界的の好適地」 トレイルは利尻礼文サロベツ… この記事は有料記事です。残り709文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
「東洋一」の兵器工場襲った3千発の爆弾 あの日に起きたこと伝える
78年前、「東洋一」と称された兵器工場は空襲に見舞われ、若者ら多くの命が無残に失われた。終戦の約1週間前のあの日の空襲で何があったのか――。減りゆく空襲体験者らの記憶を聞き取り、次代に伝えるために書き残していく活動を続ける人たちがいる。 1945年8月7日午前10時過ぎ、愛知県豊川市の上空に100機を超える米軍のB29爆撃機が飛来した。狙いは、186ヘクタールの敷地に海軍の兵器工場が集積する「豊川海軍工廠(こうしょう)」だ。250キロ爆弾が3千発以上落とされた。市によると、2500人以上が亡くなったという。 「爆弾がどんどん落ちてね。バーンと落ちると大きな穴が開くでしょう。私はその中へドドドと入っちゃって、そこからまた這(は)い上がって逃げたりしてそれが思い出です。そしたら隣の人はもう首がない、足がない」 静岡県内の高等女学校からの動員学徒だった浜松市在住の女性(94)は、あの日をそう振り返る。 女性の証言は市民グループ「豊川海軍工廠跡地保存をすすめる会」が今年3月に発行した会報「けやき」に掲載された。 「77年かけてやっと書けた」という体験記 今年2月に亡くなった東京都… この記事は有料記事です。残り742文字有料会員になると続きをお読みいただけます。 Source : 社会 – 朝日新聞デジタル