地域が減反政策に苦慮する中、イチゴ栽培に目を付けた。「東京で売って日本一の産地を目指す」(秋田魁新報記事より)との思いを抱き、成功を収めた。町議を連続4期務めるなど地元の発展に尽くした名士だ。 長男の菅氏は、高校卒業後に上京。簗瀬さんは「裕福とは言わないまでも恵まれていた。同級生たちのような集団就職ではなく、都会に出てみたかったのではないか」と推測する。 上京後、段ボール工場に就職したが、「視野を広げるために学びたい」と考えるようになった。アルバイトをしながら受験勉強に励み、法政大学へ進んだ。 卒業後は、横浜市を地盤とする自民党の故小此木彦三郎衆院議員の秘書となり、政治の世界に飛び込んだ。26歳のときだった。 横浜市議を経て、47歳となった1996年10月、激戦の衆院神奈川2区から出馬し、国政進出を果たした。 初当選は、故郷の秋田でも注目され、地区では花火を打ち上げ祝ったとの逸話が残る。当時の秋田魁新報夕刊には「わかりやすく、責任のある政治を実行したい」との菅氏の言葉が紹介されている。
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