太平洋戦争の終戦間際、長崎市では空襲による軍需工場や行政機関などの重要施設への延焼を防ぐため、周辺の木造住宅を取り壊して住民を立ち退かせる「建物疎開」が行われた。長崎市の被爆者、田川博康さん(87)は生まれ育った住居を壊された1人だ。両親は浦上地区に転居し、原爆で犠牲になった。「もしも疎開が、そして戦争がなかったら…。今でもそう考えずにはいられない」 焼け跡での学校再開、涙の卒業式…教諭が描いた被爆後の子どもたち 長崎原爆戦災誌によると、長崎市では戦局の悪化に伴い、1944年11月から45年7月まで建物疎開が行われ、8929世帯3万5048人が住まいを追われた。疎開の対象となったのは三菱長崎造船所などの軍需工場や、行政庁舎が建つ旧市街地周辺。新たな住居を求めて浦上地区に移って被爆した人も多い。 同市築町に住んでいた田川さん一家に建物疎開の通知が来たのは45年春ごろ。軍国主義の当時、住み慣れたわが家を離れることも「お国のため」と信じて疑わなかった。田川さんは同市鳴滝の祖父の家に、両親は浦上方面の同市竹の久保町で経営していた工場に移り住んだ。
そして長崎原爆の8月9日、田川さんは祖父宅で被爆したが軽傷だった。2日後、両親を探して浦上方面を歩いたが途中で見た道に転がるたくさんの遺体、腐敗した臭いは今も忘れることができない。防空壕(ごう)で両親と再開できたが、父は足に大けがをしていた。「疲れて感覚がまひしていたのか、実感が薄かった。ほっとしたことは覚えている」 それでも離別はすぐやってきた。父は足を切断する手術のかいなく、6日後に亡くなった。母は大きな外傷がなかったが原爆症で体調を崩し、後を追った。「博(ひろ)ちゃんはおおきゅうなってね」。亡くなる間際、母が残した言葉に、それまで我慢した涙がこぼれた。
あの戦争は何だったのだろう-。戦後、米国の国力と日本の劣勢を知った。国民は、勝ち目のない戦争に付き合わされていたとしか思えなかった。 田川さんによると、築町の一家の住居跡はいま道路の一部になった。爆心地から3・5キロのこの地域も、被爆時にはほとんどの建物が壊れた。ただ疎開による立ち退きがなければ、両親は浦上地区には移らず、命は取り留めたのではないか。そう考えてしまう。 当時のことを思い出すのがつらく、原爆については長年、口を閉ざしてきた。語ることができるようになったのはほんの7年前。原爆で犠牲になり、何も語れなかった人も大勢いる。それなのに自分が口を閉ざしていてもいいのか、と思い至ったからだ。 「一部の人の都合でたくさんの人が亡くなった。その歴史を忘れてはいけない」 (西田昌矢)
Source : 国内 – Yahoo!ニュース