作家、三島由紀夫が東京・市谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺して、今年で50年になる。いまも世界で作品が読まれる三島が、現代に残した問いとは何だったのか。その生と死を考える。
様々な「記号」から解き放てる時 豊島圭介さん(映画監督)
今春公開したドキュメンタリー映画「三島由紀夫VS.東大全共闘 50年目の真実」で撮りたかったのは、三島が「いかに死んだか」ではなく「いかに生きたか」です。
三島には、軍服や割腹自殺といったイメージがつきまといます。そして、その死とともに語られてきました。自衛隊駐屯地に乗り込んで自決したのですから、当然です。
でも三島の映画を手がけるうちに、世間に流通しているイメージの陰に豊かな別の像があることを知りました。
1969年5月13日、東大駒場キャンパスであった討論会で、三島は千人を超す東大全共闘の若者を前に、目を輝かせて、冗談を飛ばし、相手の言葉を真摯(しんし)に聴いていました。こんなに生き生きした三島を、彼を知らない世代に届けたい。TBSに残されていた当時の映像を見たとき、そう思いました。伝説化された「アイコン」や「記号」から、三島を解き放ちたかった、といってもいいかもしれません。
記事の後半では、「(死なない)憂国」で作・演出を担当した長久允さん、実弟が三島由紀夫とともに自決した森田治さんが、現代に残された問いについて語ります。
あの討論会で重要だったのは、…
2種類の会員記事が月300本まで読めるお得なシンプルコースはこちら
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル