昭和を代表する文豪・武田泰淳の妻百合子(1925~93)。彼女が富士山を望む別荘で13年間つけ続けた『富士日記』が今も読者から熱い支持を受けている。須賀敦子や小川洋子らをとりこにした、その自由奔放な文章の魅力とは?
拡大する山荘で愛猫タマを抱く武田百合子(手前)と泰淳。これより3年ほど前から泰淳の体が年々弱ってきて、以後、百合子も日記を書かない時期が続いた=1974年8月、山梨県鳴沢村/撮影・武田花さん
1966(昭和41)年9月7日朝、富士山の麓(ふもと)にあるガソリンスタンドに、女性の運転する乗用車が急ブレーキで乗り入れた。降りるなり店員に近づき、まくしたてた。
「車のサーカスみたいな運転してやった」
「口惜しいから車のサーカスみたいな運転してやった。この人と死んだってかまうかと思ってね。この人スピードあげて走るの一番キライだから、キライなことやってやった。おじさんどう思う?」
「この人」とは助手席で沈黙している夫。女性は下りカーブを走行中、対向車線をはみ出してきた自衛隊車両にぶつかりそうになったので「何やってんだい。バカヤロ」と窓から首を出して文句を言った。すると夫が嫌そうな目つきで注意し、そのうち「男にむかってバカとは何だ」と激怒した。逆上した女性はアクセル全開で暴走、知人に言いつけにきた――。
この女性は当時40歳だった武田百合子。文豪の妻とは思えない逸話は『富士日記』の魅力の一つとしてファンの間で親しまれている。
記事後半では、武田百合子と親交のあった作家で元編集者の村松友視さんが、思い出と魅力を語ります。
「現代の日記文学の傑作」と評され、作者没後27年を経ても新たなファンを呼び込むロングセラー。64年に山梨県鳴沢村に別荘が完成した際、夫に「山にいる間だけ日記をつけよ」と言われたのが出発点だった。76年秋に泰淳が亡くなると、暮れに追悼特集を組んだ月刊文芸誌「海」が日記の一部を掲載。これが大きな反響を呼び、同誌で翌77年1月、連載がスタート。田村俊子賞に輝き、文壇の重鎮たちは「天衣無縫の文章家」「天賦の才能」と絶賛した。
日記に書かれた高度経済成長期…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル