手のひらに収まる丸い一輪ざしの花瓶のような陶器と漬物石になりそうな円筒形の陶器。1センチほどの厚みで中は空洞になっているこれらの陶製品は、アジア太平洋戦争の末期に日本で生産された四式陶製手榴弾(しゅりゅうだん)と三式地雷である。 【写真】陶磁器の手りゅう弾 1931年の満州事変に始まった中国との軍事衝突から上海事変、日中戦争へと拡大する日本の軍事行動は、国際連盟加盟国から非難を受けることとなり、事実上の経済制裁とも言える対日貿易の制限が行われた。米国、英国、中国、オランダの頭文字をとってABCD包囲網とも呼ばれる貿易制限により、鉄鉱石や石油などの地下資源が少ない日本では兵器製造の原材料や戦闘機の燃料などの輸入が困難になり、不足するようになった。そして、41年12月の真珠湾攻撃で欧米諸国との戦争が始まると、地下資源の豊富な東南アジアなどへ一気に戦線を拡大していった。 その結果、国内では少ない物資を軍需に回すために国民生活にさまざまな制約や要請が加えられた。米、みそ、しょうゆ、砂糖などの主要な食料品や衣料品、日用品は配給制となり、不足する物資の供出が一般家庭にまで求められた。金属類の供出では、鍋釜や寺の釣り鐘、橋の欄干などまで取り上げられていった。金属の代用として生活用品に使われたのが陶器であった。水筒、ゆたんぽ、学生ボタンをはじめ、終戦間際には硬貨までも陶器で作られている。
手榴弾や地雷などの軍需品が陶器で作られるようになったのは、戦況が悪化し、国土が爆撃機などの空襲にさらされ本土決戦が現実味を帯びてきたころから。全国の陶磁器の産地で生産された陶製の容器が軍需工場に集められ、爆薬を詰め信管などを取り付けて製品化された。金属の製品に比べると殺傷能力は低かったようだ。 写真の手榴弾と地雷は、埼玉県川越市にあった浅野カーリット埼玉工場に集められ戦後不要となった陶製容器が、粉々にされ工場近くの河川敷に投棄されていたものである。 (嘉麻市碓井平和祈念館学芸員 青山英子) ■ 嘉麻市碓井平和祈念館が収蔵する戦争資料を学芸員の青山英子さんが紹介します。
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