15歳の冬に母親と2人でフィリピンから愛知県蒲郡市にやってきた中村アヤさん(24)が、英語教諭として県立高校の教壇に立つ。中学卒業後、夢をかなえるために仕事をしながら日本語を学ぶ一方、日本語に不慣れな仲間を献身的に支えた「希望の星」は、周囲への感謝を胸に、生徒に寄り添う教育者をめざす。
「来週、日本に行くよ」
首都マニラ近郊で暮らしていた2012年2月、母レイラさん(54)がこう切り出した。日本は病気で亡くした父親の母国。1週間後、チケット1枚を手に中部空港行きの飛行機に飛び乗り、その日のうちに受け入れ側の手配したバスで蒲郡へ。日本語の読み書きができないまま、中学3年に編入した。
「朝から何も口にせず、夕方に立ち寄った市内の牛丼チェーンの食事が初めての日本食だった。学校は卒業式が間近で、式典の予行演習に参加したことが印象に残っている」と中村さん。仲良くなった同級生と一緒に高校進学を望んだが、日本語による入試の突破は困難で、受験を見合わせた。
多文化共生を掲げる蒲郡国際交流協会の運営で、外国出身者を支援するボランティアが教える日本語教室に1年間、通うことになった。「一歩一歩チャレンジを続ければ、道は開ける」を信条に、昼間はスーパーの鮮魚売り場で働き、教室では一回りも離れた社会人の外国出身者たちと机を並べた。「まだまだ伸びる」と励まされ、難解な漢字や文法など中学校で習う内容まで習得。「最愛の娘のために」と働きづめのレイラさんからも、「私が倒れても苦労しないように頑張ろう」と背中を押された。
当時教室をまとめていたボランティアの夫妻の自宅に招かれ、日本語指導の合間に、得意の英語を教えた。「日本の文化も知ってほしい」と心を込めた料理を振る舞われ、助けてくれる人たちの優しさを知った。
努力が実り、多くの外国出身者が通う4年制の蒲郡高校定時制に合格。来日するまでは医師を夢見ていたが、日本語教室で応援してくれたボランティアのように「外国出身の子どもをサポートできる先生になろう」と考え、在学中に公立学校の教員に必要な日本国籍を取得。量販店でアルバイトを続けながら、勉学に励んだ。名古屋市にある愛知大学国際コミュニケーション学部に進学後は、教職課程など忙しい毎日をやりくりしながら、「外国人生徒教育支援員」に採用され、来日から間もないフィリピン出身の生徒をタガログ語を交えながら支えた。
自身も出場経験がある日本語スピーチコンテストでは審査員を任された。困難に向き合い、困っている人に手を差し伸べることをいとわない「アヤちゃん」はいつしか、外国出身者コミュニティーの希望や誇りに成長していった。
英語能力テストで満点を取るほど卓越した語学力の持ち主だが、好待遇の英語の講師や家庭教師の仕事を選択せず、接客を伴う量販店のレジ打ちの仕事を大学を卒業するまで続ける徹底ぶり。日本語漬けの毎日を送ることになることを想定して「日本語に触れる機会を少しでも増やしたい」と考えたという。
日本語教室の三浦嘉子さんは「何事にも意欲的で、後輩たちの面倒見がいい。頑張る姿勢が後輩に勇気を与えている」と話す。
県立高校の英語教諭として1日付で採用され、西尾市の一色高に赴任した。外国語を母語とする人が外国語の授業を受け持つ講師となる例は多いが、学級担任などを任される教諭として起用される例は珍しい。
新生活に対する思いは人一倍だ。生徒たちと対面を前に中村さんは「コロナ禍で生徒たちも苦労をしてきたと思う。ルーツ(出自)にかかわらず、生徒に親身に寄り添い、様々な悩みに耳を傾けたい」と気持ちを新たにしている。(床並浩一)
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル