スリランカ人女性の入管施設での死亡をきっかけに、出入国在留管理庁(入管庁)の「体質」が問われている。政府は今月中に最終報告書を出すと言うが、問題の根底にあるものは何なのか。
同じ外国人でも非白人はちょっとしたミスで悪循環に にしゃんたさん(羽衣国際大学教授)
僕は、ウィシュマさんと同じスリランカ出身です。ウィシュマさんの母親は娘の留学の夢をかなえるために家を担保にお金を工面したと聞きましたが、僕も33年前、父が家を担保にお金を借りてくれたから日本に留学できました。境遇には似た点があります。
2005年に日本国籍を取得するまで、僕も何度となく入管に通いました。入管という空間は、言うたらなんかこう「気持ち悪い」んですよ。何も悪いことをしていない、ビザの更新で来ただけなのに、気持ちまで汚れてしまうような。外で目にする日本人とはまるで違う。非人間的な扱いが凝縮した空間です。
「入国管理」の「管理」に重きが置かれ、管理のためなら何をやってもいい、そして管理対象の外国人は「まずは疑う」という思考がセットになっているように感じます。
言葉遣いが、わかりやすい例です。20年ほど前に山口県立大に赴任したとき、ビザの更新期限と発令日が重なり、大学側の書類が間にあいませんでした。大学から入管に連絡の上で翌日に手続きし、1週間後に入管にビザを受け取りにいくと、建物に入るなり「あー、君がオーバーステイの……」と職員に言われました。
日本人なら「すみません、パスポートを見せてください」と言う場面でも、外国人相手だと「パスポート、パスポート、君、パスポート」です。日本語を深く学び、日本で年を重ねていくほどに、「中」と「外」の違いがはっきりと見えてきます。
ウィシュマさんの遺族が名古屋入管を訪ねたとき、入管は、同行した国会議員を施設内に入れませんでした。国民の代表者でも相手にしない。大半の日本人にとっては日常の生活に関係のない役所ですから、無関心の中で、こうした傲慢(ごうまん)さ、独特の文化が温存されてきたのだと思います。
記事後半では、にしゃんたさんは「もしウィシュマさんが日本人だったなら、外国人だとしても白人だったなら…」と日本での非白人の立場を語ります。また、弁護士の鈴木雅子さんは、入管の出来事が問題となりにくい日本社会の「暗黙の『容認』」について指摘します。さらに、元法務省入管局長の高宅茂さんは、入管行政の目的は日本の発展のために外国人を受け入れることだといい「大胆な政策を考えてもいい時期に来ている」と話します。
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル