終戦の日の15日、アジアの犠牲者にも心を寄せようと、「アジア太平洋戦争開戦80周年 戦争犠牲者に思いを馳(は)せる集い」が横浜市で開かれた。1990年代から日本とマレーシアの有志で始めたクアラルンプールでの追悼式が新型コロナウイルスの感染拡大で開けず、現地と日本をリモートでつないだ。
主催は市民団体の「アジア・フォーラム横浜」。両国合わせて約100人が参加した。
集いでは参加者による献花の後、マレーシア・ジョホール州在住の元小学校長の憑篤生(フォントックセン)さん(87)が、日本軍のマレーシア侵攻のときの体験を語った。
憑さんは、日本軍の侵攻から逃れるために生まれ故郷の中国広東省から父親が雑貨店を開いていたマレー半島のベヌートに避難。しかし、その地にも42年3月、日本軍が侵攻してきた。7歳だった憑さんはゴム園の中に隠れて難を逃れたものの、かわいがってくれた雑貨店の店員が銃剣で刺されて死亡した。街にいた華僑約5千人のうち約1200人が犠牲になったという。
「命を守れた私は幸運だった。しかし、豊かだった家族の生活は困窮し、とても苦労した。私は戦争で学校をやめなくてはならず、戦後12歳で小学校に入り直さなくてはならなかった」と語った。
第2部では、高嶋伸欣(のぶよし)・琉球大名誉教授(79)が講演。太平洋戦争が米ハワイの真珠湾攻撃で始まったと社会で広く認識されていることに異議を唱えた。
日本軍はマレー半島のコタバルに真珠湾攻撃より1時間以上も前に上陸していたと指摘。しかも英国への宣戦布告はなかったと解説した。「41年12月8日以降の日本軍の東南アジア占領は、アジアの人々にどれほどの被害を与えてきたか、目を向けなければならない」などと語った。(編集委員・大久保真紀)
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル