水俣病の公式確認から65年の今秋、日本で封切られた映画「MINAMATA―ミナマタ―」。クライマックスで、胎児性水俣病患者の少女と母が入浴する場面の写真が映し出される。写真家ユージン・スミスの代表作は、家族の意向で「封印」されたのではなかったか。ユージンとともに水俣で取材した元妻のアイリーン・美緒子・スミスさんに尋ねた。
アイリーン・美緒子・スミスさん
1950年生まれ。71年にユージンと来日し、結婚。水俣では通訳を務めつつ自分でも撮影。ユージン死去後、米コロンビア大で環境科学の修士号を取得。環境市民団体「グリーン・アクション」代表。京都市在住。
――50年前、夫となるユージン・スミスとともに米国から来日しました。2人が「水俣」を知ったきっかけは何だったのですか。
「ユージンは第2次世界大戦中、米軍の従軍カメラマンとして硫黄島や沖縄で取材しました。日本で開く回顧展のために渡米した主催者から『日本で写真を撮らないか。水俣というところで漁村の人々が工場排水により死んだり倒れたりしている』と聞き、その場で水俣に行くと決めました。水俣滞在は1971年9月から3カ月の予定でしたが、結局3年間になりました」
――当時、患者の方々の撮影はどのように進めたのですか。
「患者さんの家の離れを借り、彼らの日常生活に触れ、裁判や集会、チッソとの交渉や座りこみに同行しました。旅館で雑魚寝し、同じバスで一緒に歌を歌いました。ユージンは言葉が通じなくても、優しく楽しい人柄でその場に溶け込み、皆さまに支えられ、私たちは写真を撮りました」
――胎児性患者の上村(かみむら)智子さんも近所に住んでいたのですね。
「上村家に子どもは7人いて、智子ちゃんが長女でした。魚を食べた母良子さん(87)の体にたまった水銀の毒を、胎盤を通して吸い取ってくれたと感謝し、ご両親は初子をいとおしみ『宝子(たからご)』と呼びました。重い症状の長女に家族みんなで愛情を注いでいました」
◇ ◇
響くシャッター音と水の音「ここが頂点だ」
――智子さんとお母さんを撮影した写真は1972年の「ライフ」誌6月号に載り、世界に衝撃を与えました。「入浴する智子と母」はどのように撮影されましたか。
「智子ちゃんはお風呂が好きだと聞いていました。お母さんとお風呂に入っている写真を撮れれば、とユージンが尋ね、お母さんが『よかですよ』と応じてくれました。写真でものごとの本質をとらえたいという信念から、水俣病に侵された苦しみと、家族に深く愛されていた智子ちゃんの姿を表現したいと考えてのことでした」
「12月の寒い日でした。窓から入る逆光が強く、顔が影にならないように私がライトを持ちました。ユージンは息を吸って止め、シャッターを切る。山に登るように集中を高め、撮るべき瞬間に近づく。母子と私たちが一緒に呼吸する静かな空間にシャッター音と水の音が響き、『ここが頂点だ』という瞬間が2回ありました」
「封印」されたはずの写真をなぜ公開したのか。記事後半では、撮影時の様子や「封印」を決意した経緯をたどりながら、アイリーンさんが写真公開に込めた思いを語ります。
――ご両親は、なぜ撮影を承諾したのでしょうか。
「上村さんら患者さんたちは…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル