74回目の「終戦の日」を前に、日本統治下のトラック諸島(現ミクロネシア連邦チューク諸島)で米軍の空襲に遭い、海底で眠る父への思いを募らせる遺族がいる。撃沈された艦船内には無数の遺骨が残存するが、技術的なハードルが高く、収集が進んでいない実情がある。現地で慰霊を続けてきた遺児の桑山市郎治(いちろうじ)さん(77)=愛知県知多市=は「父が『日本に戻りたい』と訴えている気がしてならない」と、父親の思いを代弁する。
日本の南東約3千キロの太平洋上に、200を超える島々が点在するチューク諸島。コバルトブルーの海深くにさび付いた船体が横たわり、一部はサンゴで覆われ、熱帯魚が漂う。ダイビングスポットにふさわしい光景が広がる一方、爆撃の痕跡が生々しい船内には戦没者の遺骨が散在する。
桑山さんの父、重貞さん=当時(24)=が機関士を務めた輸送船「愛国丸」はデュブロン島(当時は夏島)の東約2キロ、水深50~70メートルの地点にその姿を残す。民間貨客船から旧日本海軍に徴用され、昭和19年2月17日のトラック空襲で米軍機の爆撃により、ほんの数分で沈められた。
重貞さんは名古屋市で戦艦や戦闘機を製造していた三菱重工業の工場で働いていたが、召集令状を受けて出征。19年1月24日、神奈川・横須賀から愛国丸でトラック諸島に向かった。
桑山さんは当時1歳半。母のお腹の中には、弟がいた。「国のためとはいえ、幼い子供たちと離ればなれになることに心残りがあったと思う」と桑山さん。軍服姿の写真と、趣味で描いていた数枚の絵画などがわずかな父の遺品だった。
桑山さんが母とともに初めてチューク諸島を訪れたのは、父の死から40年たった59年7月。現地のダイバーらの情報に基づき、愛国丸から349柱の遺骨が引き揚げられ、それに合わせて生還者や遺族が沈没地点での洋上慰霊祭、遺骨の焼骨式に参加した。
洋上に花を手向け、黙祷(もくとう)をささげた時、長年待っていた父にようやく巡り合えた気がした。桑山さんは「海面に沈没船からであろう油が浮き上がっていた。父たちが祖国に帰るまでは終わっていないと訴えかけてくるようで、生への執念を感じた」と振り返る。
桑山さんの慰霊の旅は平成6年、25年、29年と計4回続き、25年には3年前に亡くなった母の遺骨の一部を愛国丸の沈没地点にまいた。ただ、国による戦没者遺骨の収集は6年の6柱を最後に行われていない。
桑山さんの父が最期を迎えたとみられる愛国丸の機関室は出入り口のハッチが開かずに入れないと説明されており、「仕方がないと心の区切りをつけていた」(桑山さん)。だが最近、ダイバーが別ルートで機関室に達し、遺骨を見つけたとの情報が寄せられ、「父がまだいるのではないか」との思いに駆られた。
遺骨収集事業を担う厚生労働省も同様の情報を把握しているが、潜水の技術面でギリギリの深さにあるとみられ、安全性など慎重な検討が必要だという。
桑山さんはかつて参加した焼骨式で、遺骨から立ち上る煙が自然と日本の方角に流れていった情景が忘れられない。「遺骨収集が国の責務なら、せめて目に見える遺骨だけは持ち帰ることができるようにしてほしい」。桑山さんはこう強く願っている。(伊藤真呂武)
Source : 国内 – Yahoo!ニュース