日米開戦から12月8日で80年。ハワイの真珠湾攻撃で奇襲の陣頭指揮をとり、その11年後、今度はキリスト教の平和の伝道者として米国に渡った海軍将校がいた。数奇な運命をたどった彼の生涯がいま、問いかけるものとは。
プレミアムA「日米開戦80年」
いまから80年前の1941年12月8日。日本は真珠湾で米海軍を奇襲しました。圧倒的な国力差をわかっていながら、戦争へと至らしめたものは何か。文書や証言から、改めて問います。
将校の名は、淵田美津雄(1902~76)。1941年12月8日、6隻の空母から発した戦闘機や爆撃機など350機を陣頭指揮し、米太平洋艦隊に甚大な被害を与えた。彼が発した暗号電報「トラトラトラ」(ワレ奇襲ニ成功セリ)は有名だが、淵田の名を知る人は今や少なくなった。
しかし、当時の日本人にとってはまさにヒーローだった。70年に公開された日米合作の大作映画「トラ・トラ・トラ!」で、淵田役を演じた俳優の田村高廣(1928~2006)は生前のインタビューで「『発信、ワレ奇襲ニ成功セリ。トラトラトラや』というせりふがいいたくて、あの役を受けたんです」と目を輝かせた。
淵田は原稿用紙で2千枚を超える自叙伝を書き残した。亡くなるまで8年をかけて執筆を続けたとされる。死後約30年たった2007年に『真珠湾攻撃総隊長の回想』(講談社文庫)として出版された。編集と解説を担当したのが、昭和史を発掘するテレビ番組を多く手掛けた元NHKプロデューサーでノンフィクション作家の中田整一さん(80)だ。
『真珠湾攻撃総隊長の回想』は、出生から海軍入隊、真珠湾攻撃、ミッドウェー作戦、敗戦による精神的支柱の喪失、キリスト教への入信、精力的な伝道活動まで丹念につづられている。
中でも真珠湾攻撃のパートは詳細で、文庫本で約90ページにわたる。被弾によって機体が損傷、燃料もギリギリになりながら、戦闘指揮や戦果確認、迷った機の帰投誘導のため、単機で3時間、真珠湾上空にとどまったと記しており、彼の責任感の強さを表すものだ。帰投したとき、整備下士官から「この状態で、三時間もよく飛んでいたですねえ」と言われたという。
太平洋戦争のターニングポイ…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル