「なつぞら」で農民資本の「十勝協同乳業」設立が描かれました。国の妨害に遭う中、音問別農協の田辺政人(宇梶剛士)組合長は、十勝の農協組合長をまとめ上げ、十勝支庁長から賛意を取り付けます。実際にあった話です。
田辺は太田寛一・士幌町農協組合長(後にホクレン会長、全農会長)、十勝協同乳業は北海道協同乳業(よつ葉乳業の前身)がモデルと想定されます。
太田は1915(大正4)年、十勝の川西村(現帯広市川西町)の生まれです。小学校卒業時に十勝支庁長から表彰されるほど学業がずば抜けていました。しかし、家が貧しく進学を断念し、地元の産業組合に就職します。後に士幌村産業組合(士幌町農協の前身)にスカウトされました。
ここで知り合った獣医師の秋間勇や飯島房芳(のちに士幌町長)らと共に、太田は「産業組合運動で農村を豊かにしよう」と、精力的に励みました。太平洋戦争後、士幌村農協が設立されると常務に、53(昭和28)年には37歳の若さで組合長に就任します。
56(同31)年9月、村内の全酪農家(323戸)に呼び掛け、全会一致で士幌村酪農振興協議会を設立。この組織を起爆剤に、農協は生乳の一元集荷多元販売に踏み出します。わが国初の生乳の共同販売で画期的なものでした。
当時、士幌村では乳業各社による激烈な集乳競争が行われていました。親子で生乳の出荷先が違ったり、農家ごとに乳価差があったり、混乱を極めていました。太田は、この問題を解決しなければ酪農の発展はないと、酪農家の団結を促したのです。
この結果、乳業会社と対等な取引が実現し、乳業が行っていた生乳検査を自ら行うようにもなりました。こうした取り組みの延長線上にあるのが、67(昭和42)年の北海道協同乳業の設立です。
太田は66(昭和41)年、欧州の乳業事情を視察し、農民自ら乳製品工場を経営していることに驚きます。そして帰国後、極秘裏に工場建設に動きます。しかし、実現までには、大きな障害がいくつも立ちはだかっていました。(農政ジャーナリスト・神奈川透)
Source : 国内 – Yahoo!ニュース