最大震度7を観測し、44人が死亡した北海道胆振(いぶり)東部地震から6日で5年を迎えた。山から崩れ落ちた土砂が集落を押し流し、13世帯34人のうち19人が亡くなった厚真(あつま)町吉野地区。だれも住まなくなった地区に通い、1人で農業を続ける男性がいる。
8月下旬、地震から5回目の秋を迎えた吉野地区では、黄金色の稲穂がこうべを垂れていた。
「神社の鳥居は(40~50メートル先の)あの田んぼのあたりまで流されました」。早坂信一さん(58)は自らの田の前で、道内から視察に訪れた農家や行政職員ら約30人に語りかけた。
2018年9月6日午前3時7分。父・清さん(当時81)と母・艶子さん(同80)は就寝中に家ごと土砂に流され、押しつぶされた家の中から変わり果てた姿で見つかった。早坂さんは、地震の前からコメ作りのリーダー的存在だった清さんの後を継いだ。
地震で土砂の流入を免れた田では、稲刈りが9月下旬に迫っていた。農業を続ける気持ちが折れかけたが、被災で失った農機の調達などに奔走するうちに不安は消えていった。「ずっと農業をやってきた。今さら何の仕事ができるんだって思い直した」
早坂さんは翌年の町主催の追悼式で遺族を代表してこうあいさつした。「亡くなった人たちは、残された家族がいつまでも泣いているのは見たくない。なので、できるだけ無理にでも笑おうとしている。同じような災害で、同じように悲しい思いをする人がいないよう、一日も早い復旧と普通の生活に戻ることを願う」
北海道による土砂の撤去や整地といった農地の復旧は、地震から2年で完了した。しかし、同地区の農家は亡くなったり移住したりして、早坂さんだけになった。
早坂さんは担い手がいなくなった農地を借り受けた。高齢化や後継ぎ不足で耕作できなくなった農地も借り、経営する農地を30ヘクタールにまで広げた。
1人になっても吉野地区で農業を続ける理由について、早坂さんは「ビジネスになるから。30ヘクタールあれば十分食べていける」と語り、農法も工夫する。同じ作物を作り続けることで生育不良になり収量が減る「連作障害」を防ぐため、コメだけでなく、大豆や小麦を順繰りに植え付けている。
両親や先人たちへの思いを強調することはない。「コメで生計を立ててきた地域。遺族や旧住民の土地や田んぼへの思い入れや、コメを育ててほしいと願う気持ちはわかっている」と語り、農家として前を向く。
町内でコメ農家を続ける男性は、早坂さんが孤軍奮闘する姿に「農業生産王国の北海道に生まれ、日本の食糧事情を安定させるという農業者としてのプライドがそうさせるのではないか」と推測する。
復旧のかじ取りをしてきた宮坂尚市朗町長も「独自の考えや方法で、ファンがつくような農産物を作るという気持ちが強いと感じている」と早坂さんを評価する。
早坂さんはあぜ道の草を刈りながら、ようやく草木が生え始めた山肌を見渡し、収穫後の小麦畑に目をやった。「本当の再生までどれくらいかかるだろうか。麦の収穫量はあと1、2割上がればいいんだけどな」(松本英仁)
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル