Re:Ron連載「ことばをほどく」(第5回)
「マンスプレイニング」という言葉がある。レベッカ・ソルニットの『説教したがる男たち』(ハーン小路恭子訳、左右社)が2018年に翻訳出版されたあたりから日本語でもちらほらと見かけるようになり、例えばシェークスピア研究で知られる北村紗衣さんが同じ年に「現代ビジネス」で解説記事を書いている。
マンスプレイニングはman(男性)とexplaining(説明する)を合成した造語で、女性の側が説明を求めているわけでもないのに男性が上から目線で説明する振る舞いを表す。場合によっては、女性の側のほうが豊かな専門的知識を持っている場合でもしばしばなされるということもよく指摘される。
私はトランスジェンダーであるとオープンにしていて、しかも言語やコミュニケーションに関する哲学的研究を専門としているためか、「マンスプレイニングに関して理論的に解説してほしい」という依頼を受けることがある。それだけマンスプレイニングという現象に関心が高まっているということなのだろうし、またそれに比してそれが結局のところ何なのかということをうまく咀嚼(そしゃく)しきれていないと感じるひとが多いということなのだろう。今回は、マンスプレイニングの何が問題なのかを考えてみたい。
けれどその前にマンスプレイニングが単に「偉そうに上から目線で説教するひとが世の中にはいる」という個々人の性格や振る舞いの問題ではなくジェンダーの問題である、ということを改めて強調しておきたい。そのことを私が強く意識するのは、何よりも自分が性別移行の経験者であるためだ。
説教されるようになったのは
当たり前の話だが、世の中のひとは相手の性自認(性同一性、ジェンダーアイデンティティー)がなんであるかを問わず、自分が認識した相手の性別に従って相手に接する。いかに本人が女性としてのアイデンティティーを持っていようとも周囲が男性と見なせば男性としての扱いを受けるし、男性としてのアイデンティティーを持っていようとも周囲が女性と見なせば女性としての扱いを受ける。ノンバイナリーなアイデンティティーを持っていても、周囲の人々はしばしばそんなことは気にも留めず、女性に見えたら女性として、男性に見えたら男性として扱ってくる。
世の中のたいていのひとは、「性自認がわかるまでは特定の性別のひととして扱わないようにしよう」という留保さえせず、問答無用で自分の認識に沿って、ひとを女性扱い/男性扱いするのだ。それゆえ性別移行前の私は、自分自身の実感としては自分の性別もよくわからないアイデンティティーの迷子状態だったものの、周囲からは当然のように男性として扱われていた。
他方で、世の中のひとは相手の性自認だけでなく、相手の戸籍や性器の形状、性染色体などにもほとんどの場合に無頓着だ。ぱっと見で相手を女性だと認識すれば女性として、男性として認識すれば男性として接してくる。「ひょっとしたら戸籍の性別は違うかも」といった可能性なんてはなから意識していないかのようだ。しかもその認識はおそらく多くのひとが想像するより大雑把で、私は背も高く声も低いが、ほとんどのひとはそんなことを気にせず女性として接してくる。
そうするとどうなるかというと、性別移行済みのトランスジェンダーの多くは、性別移行前には女性(男性)として扱われたかと思えば、性別移行後には男性(女性)として扱われるといったように、女性が受ける扱いと男性が受ける扱いの両方を生身で経験することになる。女性扱いと男性扱いの両方を実際に味わったうえでそれらを比較できるというのは、なかなか得難い視点だろう。そしてその視点から見たときに、マンスプレイニングはかなり目立つ現象のひとつであるように、私には感じられたのだ。
例えばバーで仕事について聞…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル