あの日を忘れない──。6000人を超す犠牲者を出した阪神・淡路大震災から17日で25年。当時、兵庫県やJAの職員として被害の把握や復旧に尽力した人は、被災直後の様子を鮮明に覚えていた。平穏な日常を取り戻し、木材店主やJA組合長となった今、震災を風化させず備えることの大切さを訴える。(北坂公紀、前田大介)
県産材で心寄り添う 兵庫県多可町で木材店 木原浩則さん
兵庫県多可町で木材店を営む木原浩則さん(57)は、県産木材で震災の記憶の風化を防ごうと取り組む。25年前は県職員。地震発生時は加古川市にあった職員住宅で就寝中だった。県庁がある神戸市までの交通は、ほぼまひ状態。ヒッチハイクするなどしてたどり着くまで丸1日かかった。
災害状況を把握するため写真撮影に奔走した。特にビルの倒壊が激しかった同市中央区を中心に撮りためた。惨状を目の当たりにし「正直5年は駄目だと思った。あの日は決して忘れない」と振り返る。
転機となったのは2016年。「東日本大震災の被災地にヒノキを使った入浴剤を贈りたい」と神戸市の入浴施設から打診があった。同じく震災を体験し「木片が心の安らぎに結び付くなら」と提供を決めた。「がんばろう東北」などと約1000個の木にメッセージを書き添え、宮城県石巻市に送った。
自然災害が集中した18年は西日本豪雨の被災地の岡山、広島の両県に仮設プレハブ住宅用の木くいなどを提供した。
近年、自然災害が立て続けに発生。木原さんは県産木材の提供などを通じ「震災を経験していない若い世代に災害はいつ発生するか分からないことを伝えていきたい」と語る。
組合員の犠牲 脳裏に 兵庫・JA淡路日の出 相坂有俊組合長
震源に近い兵庫県・淡路島北部。島で最も被害が大きかった旧北淡町(現淡路市)では家屋の3分の2が全半壊し、39人が犠牲となった。当時JA日の出(現・淡路日の出)の北淡支店本部長として、震災対応の陣頭指揮を執ったのが現在の相坂有俊組合長だ。
「ごつい(大きい)揺れだった。揺れというより、体が突き上げられ、宙に浮く感覚だった」。自宅で被災し、急いで事務所に向かった。
まずJA職員と組合員農家の安否確認を行った。「幸いにも北淡町でJA職員に犠牲者は出なかった。ただ組合員の犠牲が相次いだ」。多くの遺体が並べられた合同安置所の光景は今も脳裏に焼き付いている。
海岸沿いの地域では、ほとんどの家屋が全半壊した。町全体が崩れ、ショックだったという。JAでは3月末まで共済の査定作業に追われ、「通常の業務からすると異常事態だった」と話す。
冬場に発生したため、農産物の被害は限定的だった。亀裂や段差ができた農地もあったが、多くはすぐに復旧した。むしろ印象に残っているのは、多くの犠牲者や崩れた町の姿だ。
「備えあれば憂いなしというが、災害は起こってみないと分からない。当時の悲惨な記憶は忘れられない」。未曽有の被害をもたらした震災を胸に刻む。
<メモ> 阪神・淡路大震災
1995年1月17日午前5時46分に発生。史上初めて震度7が観測された。兵庫県を中心に死者6434人、行方不明者3人に上り、戦後では東日本大震災に次ぐ地震災害となっている。農水省によると、農林水産被害額は912億円に達した。
日本農業新聞
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