明治の長崎の炭鉱の島ではコレラが大流行し、多数の死者が出ました。それは近代化による社会システムの矛盾の表れだったと、長崎の近代史に詳しい建築家、中村享一(きょういち)さんは言います。コレラの経験から、新型コロナウイルスと現代社会を考えました。
――炭鉱の島といえば、長崎市の「軍艦島」を思い浮かべます。
戦艦のような外観の軍艦島は正式には端島と言います。狭い島内に数千人が暮らし、ピークには人口密度が東京23区の9倍に上ったと言われます。
――密着、密集、密閉の3密だったのでは。
3密でしたが、赤痢などが流行しても、島の経済が止まることはありませんでした。経営した三菱は、小さな島なのに隔離病棟や隔離エリアを設けるなど、感染症を意識し、町をつくりました。
拡大する「軍艦島」では鉄筋アパートの住居が従業員にあてがわれた=1948年、現・長崎市
――明治の炭鉱は過酷で知られます。端島が先進的だったのはなぜですか。
隣の高島(長崎市)で感染症が…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル