お正月、いまも箱根駅伝を観戦すると、自分のタイムと比べてしまう。自分だったらどう走るか。つい考えてしまう。
48歳、2児の父。高嶋康司はつぶやく。
「いつ、諦められるのかな」
往路のゴールがある神奈川県箱根町の隣・南足柄市で育った。平塚と小田原を結ぶ準エース区間の4区(20・9キロ)は、自宅から最も近いコース。小学生からの憧れの舞台だった。
お正月に車で出かけて、反対車線から見つめた選手たちのきらめきが記憶に残る。高校時代には友人と4区を走る自分を想像し合った。
「区間賞を取ったら一番目立つな」「歩いちゃったらもっと目立つ」「それダメだ」
その想像が現実となった。1996年の第72回大会。神奈川大2年生の時だ。
神奈川大は強豪選手をそろえ、優勝も狙えると言われていた。大会が近づくと、体調管理のためにメンバー入りした選手だけが、学校近くの喫茶店で食事するのが慣例だった。スッポンが出てきたこともあった。
そんな特別待遇に緊張感は増す。「選ばれなかった選手のことを考えると、下手はできない。大学を巻き込んで走る責任感もある。駅伝は1人こけると終わってしまうので」
言い出せなかった「外してくれ」
左すねの痛みは悪化していた…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル