福岡県糸島市は中国の史書「魏志倭人伝」に記されている「伊都国」があった地だ。大陸からの玄関口として古くから栄え、史跡・遺跡が各所に残る。その一つの国指定史跡「釜塚古墳」(同市神在)はこの秋、国の文化審議会の答申に指定範囲の追加が盛り込まれた。現地に足を運ぶと、案内板の横に、高さ2メートルほどの木製のオブジェがあった。先端がY字型になっている。「これって何だろう?」-。
大型円墳の釜塚古墳は、五世紀前半の築造と考えられている。現在はJR加布里駅近くの市営住宅の緑地(都市公園)として保全されている。市教育委員会によると、かつては古墳のそばまで内海(古加布里湾)が入り込んでいて、標高3~5メートルの丘に位置する釜塚古墳は、古墳時代には海を見下ろす形でその存在を誇示していたようだ。
墳丘の直径は56メートル、高さ9メートル。墳丘の周りには幅5~7メートル、外径72メートルの溝(周濠(しゅうごう))が巡り、その規模は北部九州で最大級。さらに外側で土盛り遺構(外堤)が確認されており、推定される墓域は直径89メートルに達する。現在は5段だが本来は2段か3段だったとされる。
くだんのオブジェについて、市文化課の岡部裕俊課長に質問すると、「石見(いわみ)型木製品のことですね」と笑顔で応じてくれた。
墳丘そばにあったのは、2002年の調査で見つかった遺物のオブジェで、近くの加布里小の児童が卒業記念で08年に立てたものだった。実際の木製品は、古墳の周濠から完全な形で出土。長さ2メートル5センチ、最大幅は34・5センチ、厚さは最大9・6センチで素材はクリだ。市立伊都国歴史博物館(同市井原)では複製品を常設展示している。
「被葬者の権威を示し、墓域を邪気から守る目的で埴輪(はにわ)とともに墳丘入り口に立っていたと考えられます」と岡部課長。下端から76センチまでは加工が粗く火であぶっており、この部分を土中に埋めて使用していたと推察されている。
“石見型”の名称は、奈良県の石見遺跡で初めて出土した特異な形状の埴輪に付けられていたもので、同じような形の木製品でも使われている。
このユニークな形の木製品が、近畿地方以外の国内で出土しているのは釜塚古墳だけ。一方で、韓国・光州の月桂洞古墳でも同種のものが確認されている。
近畿と光州の中間点に位置する釜塚古墳の被葬者は、当時の大和政権と密接に結び付き、大陸との交流の仲立ち役として活躍していたのだろうか。いにしえの伊都に思いをはせる。(竹森太一)
西日本新聞社
【関連記事】
Source : 国内 – Yahoo!ニュース