編集委員・伊藤智章
愛知県春日井市の眼科医山崎幾雄さん(81)の父親は、広島の医師だった。結核で寝込んでいたのに被爆者の治療に奔走し、1946年に亡くなった。大叔父は戦後シベリアに抑留され、帰国後ひっそりと暮らしていた。その大叔父は、思わぬ大事件の記録を残していた。
山崎さんは39(昭和14)年、島根県境に近い広島県旧雄鹿原村(北広島町)の診療所で生まれた。父が所長だった。広島に原爆が投下された45年8月6日朝、どんという衝撃があり、家が激しく揺れた。広島市街までは約80キロ離れているが、昼ごろ、大火に吹き上げられたらしいお札や紙の燃えかすがパラパラと降ってきた。
診療所長だった父は被爆者の治療に奔走した
被爆者が、医療も壊滅した広島から次々と逃げてきた。大八車やリヤカーに乗せられ、包帯の代わりに芋の葉っぱを腕や顔に貼り付けていた。
父は看護師のほか、母にも手伝わせ、治療に当たった。薬もなく、原爆の情報もないなかで、父に何ができたのかはわからない。
そもそも父自身、結核で体調…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル