「夫は本当に、いい亡くなり方をしました」 遺族などによって話される、他人の思考を代弁する言葉。 川崎市立井田病院かわさき総合ケアセンターで緩和ケア医を務める西智弘さんが、そもそも「よい死」「悪い死」とはどういうことか、ハフポスト日本版に寄稿しました。 ——————–
人の最期は、人の数だけある
「旦那さん、いい最期でしたね」 「夫は本当に、いい亡くなり方をしました」 緩和ケア病棟から患者さんを見送るとき、こういった看護師や遺族の会話がよく聞かれる。そして、そのあとに 「ねえ、先生?」 と緩和ケア医として、最後の時間をともに過ごしてきた僕に同意を求められるのだが、僕はそれに対していつも曖昧に「うーん」とか「そうですねえ」とか言ってごまかしている。 なぜなら…。 「よい死」というのはあるのだろうか。 そう思うからである。 確かに、痛みや呼吸困難がなかなかコントロールできず、苦しみの中で亡くなっていく患者さんや、やっとの思いで緩和ケア病棟にたどり着いたと思ったら家族の目の前で血を吐いて絶命する患者さんなども、時々だが、いる。 一方で、特に痛みも苦痛もなく、トイレまで自力で歩き、食事もパクパク食べていた方が、今日は1日目を覚まさないなと思っていると夜中のうちに息を引き取る、といった場合もある。たくさんのご家族に囲まれて、おそろいの服を着て写真を撮り、最後まで笑いながら旅立っていかれた方もいる。 人の最期というのは、人の数だけある。だからその中に「よい死」「悪い死」というのがありそうだと思ってしまうというのも頷ける。巷では、「よい死を迎えるために」なんていうようなタイトルがつけられた本もしばしば目にするし、そういった本の著者の方々が壇上で語る講演会なんてものもあるようだ。
「よい死」と「よい看取り」は何が違うか?
ただそういった、人の生死のプロセスに対して「よい」とか「悪い」と評価すること自体に僕は疑問がある。そもそも「死」は生きている家族、人、もちろん医師である私にも知覚できない営みである。「死」を知っているのは亡くなった本人だけであり、そして「死」を知った瞬間より後に、それを生者に伝えるすべはない。「よい死」と言っているのはあくまでも生者であり、故人の思いを勝手に代弁して評価することは傲慢ではないのか、と思う。 緩和ケア病棟で過ごした日々の中で、確かに故人は、苦痛も訴えず、常に笑顔で、自立した生き方も保つことができたかもしれない。でも心のうちで、どう思っていたかは、まわりにはわからない。誰も見ていないところで涙を流していたかもしれないし、薄れゆく意識の中で想像を絶する苦痛に襲われていたかもしれない。それは他の誰にもわからないことなのだ。 そういう意味で、「よい死」というのは無いと僕は思うけれども、「よい看取り」というのはあると思う。「よい死」と「よい看取り」は何が違うか?それは「語っている主体の違い」である。つまり「主語が違う」。死を迎えるのは本人だけの個人的事象であるのに対し、看取りをするのは本人を囲む家族や医療者などである。だから、「(私は)よい看取りができました」と言うならそれは家族や医療者が主語となっている、自分自身の意思であるから他の誰からも自由であるはずだ。
Source : 国内 – Yahoo!ニュース