コロナ禍の五輪になったことを悲しむのは選手だけではない。都内にある国旗メーカーの老舗もその一つ。無人の客席と在庫の山に心を痛める一方で、旗屋として揺るがない気持ちもあるという。(藤野隆晃)
15人が働く群馬県沼田市のある工場では1年半前まで、国旗を作るミシンの音が鳴り続けていた。
国旗メーカー「東京製旗」。東京オリンピック(五輪)での需要をあてこんで、各国の国旗や手旗など約30万枚を作った。例年なら3年分にあたる。
しかし水の泡になった。
五輪は無観客開催となった。行き場を失った旗は段ボールにしまわれたまま、工場倉庫や都内の営業所に2メートルほどの高さに積み上げられている。4代目社長の小林達夫さん(64)は「スタジアムでうちの旗が振られている。そんな場面を夢に見ていた。すごく残念」と悲しむ。
創業は1937年。40年の「紀元2600年」を祝う行事や軍部の伸長などで、日の丸需要が高まっていた。ただ、45年の東京大空襲で工場や自宅は全焼。日の丸掲揚を許可制にする連合国軍総司令部(GHQ)の制限が49年に解除されると、事業を再開した。51年のサンフランシスコ講和条約、59年の皇太子ご成婚などイベントが続いた。
中でも大きかったのが、64…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル