「大混乱の東京」。1923年9月1日に関東大震災が起きてから3日後、大阪の朝日新聞が出した号外には、こんな見出しで写真が大きく掲載されている。
「日比谷公園松本楼の焼失」「初震より三時間後の中央気象台」「崩壊した京橋電話局」「芝浦の避難民」の4枚。
これらの写真は、東京の状況を広く伝えるため、3日がかりで大阪にたどり着いた記者が運んできたものだ。
2023年9月1日で関東大震災から100年。当時を振り返り、現代にも通じる教訓を探ります。
銀座にあった東京朝日新聞の社屋は揺れには耐えたものの、夕方に広がってきた火災により全焼。新聞の発行機能を失っていた。
まだラジオ放送もない時代。電話も不通になった。朝日新聞社史によると、電話が生きていた群馬県などの拠点に記者が向かい、東京の情報を大阪朝日新聞に伝えたという。さらに、複数の記者が別々のルートに分かれて大阪を目指した。
東京から最初に大阪に到着したのは、福馬謙造記者だった。
号外には「福馬特派員が決死の努力で最初に大阪にもたらした東京大震害の写真」との説明書きが添えられている。
SNSで瞬時に画像が得られる現代からは想像できない。しかし、当時はこれが最速だった。
福馬記者は1日夜、まず自動車で東京を出発した。東海道ルートは行く手を阻まれ、東京の西、八王子へと向かった。路上には畳やむしろが運び出され、なかなか進めなかった。
「道路の亀裂甚だしく」「橋という橋に完全なものはなく」という状況で、板を敷いたり、車をかついでもらったりもしたという。
道中、何度か自警団に止められた。東京中心部の様子を次々に尋ねられ、離してもらえない。このとき、福馬記者は「人間のニュースに対する渇望」を感じたという。
神奈川県内に入ると、相模川の橋が落ちていた。車はあきらめて泳いで渡り、徒歩で進んだ。再び車をつかまえても倒壊した建物に行く手を阻まれ、歩くしかなかった。
国府津駅(現・神奈川県小田原市)に停車中の列車で寝ようとすると、乗客や住民でいっぱいだった。豚を載せる貨車を見つけ、臭気のなか眠り込んだという。託された未現像の写真をぬらさないよう社旗で包み、雨の山道を静岡県方面へと進んだ。
当時の東海道線は、箱根の北側を回る今の御殿場線のルートを通っていた。その裾野駅(現・静岡県裾野市)から夜行の列車が動き、大阪に着いたのは4日朝。全身泥まみれの姿で、社の入り口では守衛に止められたという。
その後、続々と記者が到着した。5日夜には講演会も開かれ、会場があふれるほどの聴衆が集まった。
こうして大阪に運ばれた写真には、被災地の様子や当時の人々の表情が鮮明に写っている。
東京駅、有楽町、銀座、浅草、箱根……朝日新聞に残る数々の写真
記事の後半では、朝日新聞が撮影した関東大震災当時の写真をさらに13枚、記者のストーリーとともに紹介します。震災翌日の紙面、福馬記者が運んだ写真を載せた号外もご覧になれます。
号外に掲載された避難者の写…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル