「どんなやつや、殺したる」
「どたま(頭)割ったる」
こん棒や鎌を手に集まった大人たちは皆、殺気立っていた。日本刀を持って逆上する人もいた。
やがて「捕虜にして調べるから、殺すな」という声がして、憲兵の先導で、金髪の米兵が担架で運ばれてきた――。
太平洋戦争末期の1945年7月30日、10歳だった金岡道子さん(87)が大阪府豊中市岡町南3丁目の住宅地で見た光景だ。地元で「パラシュート事件」として伝わる出来事を語れる最後の世代として、今年7月にあった平和学習会で証言した。
「担架で眠るように運ばれてきたアメリカの兵隊さんの顔はきれいだった。パラシュートは、天女の衣のように真っ白で、声に出せなかったけど、かわいそうだと思った」
パラシュートで降りてきた米兵、その行方は?
金岡さんが見た米兵は、硫黄島から出撃し、伊丹飛行場(現在の大阪空港)を攻撃した米軍のP51戦闘機の搭乗員だった。日本軍の高射砲で撃ち落とされ、パラシュートで降下して住宅地の大きな松の木に引っかかり、命を取り留めた。
その後、米兵はどうなったのか?
連合国軍総司令部(GHQ)…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル