【動画】街を焼き尽くした焼夷弾とは。CGや資料映像で解説=ナレーション・高橋大作
1945年、日本中の街を焼け野原に変えた米軍機による空襲。そこで主に使われた兵器が焼夷(しょうい)弾、攻撃目標を焼き払うため、ガソリンなど燃焼力の強い物質を詰め込んだ爆弾でした。なぜこれほど大きな被害につながったのか。戦時中の米軍資料を分析してきた民間研究者によって、その理由や背景が明らかになってきました。
天井裏にとどまる設計だった焼夷弾
「M69焼夷弾は、屋根を突き破って天井裏で横倒しになり、そこで火を噴くように設計されていた。木と紙でできた日本家屋の構造を徹底的に研究し、『消せない火災』を起こすことを狙った兵器でした」
そう話すのは、「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議」事務局長の工藤洋三さん(69)=山口県周南市在住=。元徳山高専教授で日本の都市空襲を30年以上にわたって独自に調査し、研究成果をまとめた自著も多く出版してきました。今も毎年のように渡米し、米国立公文書館などで資料収集を続けている空襲研究の第一人者です。
M69焼夷弾とは、米軍が日本の木造家屋を「効率よく焼き払う」ために開発した爆弾でした。断面が六角形の鋼鉄製の筒(長さ約51センチ、直径約8センチ)にきわめて高温で燃えるゼリー状のガソリンを入れた布袋を詰め、前後2段、計38本を束ねた状態でB29爆撃機から投下。上空約700メートルで分解し、散らばった無数の子爆弾が屋根を貫通して、屋内にとどまって爆発。火の付いた油脂が壁や床にへばりついて燃え、水をかけても消えにくかったといいます。
燃えやすい場所を集中爆撃
米軍が作成した日本本土空襲の指針となった資料があります。その一つが、工藤さんが2006年に入手した「焼夷弾リポート」で、米軍は兵器開発を進めながら、研究機関「国防研究委員会」の下で実戦に向けた準備を重ねていました。
リポートには、日本の20都市を研究対象に選んだことや、その攻撃方法、必要な爆弾量などを詳細に掲載。文書が発行された1943年10月は、B29の出撃拠点となるマリアナ諸島を日本がまだ統治していた段階でしたが、この時点ですでに米軍は空襲の準備を進めていたことになります。
日本の都市構造や建物の配置、国勢調査から分析した人口密度、都市ごとの火災保険の格付け……。こうしたデータに基づき、都市別の「焼夷区画図」を作り、燃えやすい区画1号から攻撃に不向きな区画3号に分けていました。「住宅密集地や商業地などに焼夷弾を集中投下することが最も重要視されました。爆弾が散発的に落ちると消火されやすく、燃え残りが次に空襲するときの防火帯となってしまう。恐ろしいですが、そこまで考えていたのです」
また、リポートでは民間人による初期消火を妨害し、消防車が出動しても消し止められないほどの大火災を発生させるために、焼夷空襲理論を考案しました。その中核にあったのが「アプライアンス火災」という考え方です。「日本の家屋は火に弱い、火災こそが大きな兵器になると信じて疑わない人がアメリカにはいた。『消せない火災』を起こすにはどうしたらいいか、彼らは昭和9(1934)年の函館大火や江戸の大火まで徹底的に調べ上げていたのです」。そう工藤さんは指摘します。
- 木造長屋を砂漠に再現
- 米軍は砂漠の中に日本風の木造長屋を建てて、焼夷弾の実証実験を重ねました。M69の開発にこだわった理由は何だったのでしょうか。
■ちゃぶ台や座布団、タン…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル