火砕流や土石流の被害を繰り返すまいと、雲仙・普賢岳の砂防工事を担ってきた国土交通省雲仙復興事務所(長崎県島原市)が今年3月、28年間に及んだ復興事業を終え、閉所した。式典で事務所の銘板を取り外す職員の中に、この街で生まれ育った男性がいた。
男性は、丸山寛起(ひろたつ)さん(39)。実家は雲仙・普賢岳の火口から約5キロ北東の島原市内にある。
1991年6月3日夕方。突然、空が暗くなった。ポツポツ。雨とともに降ってきたのは灰だった。前年11月に198年ぶりの噴火をして以降、見慣れた景色になりつつあった。
だが、その日は違った。小学校から家に帰ると、テレビが映していたのは、灰色の火砕流が山の向こう側の集落をのみ込んでいく様子だった。
2年後の6月、今度は火砕流が自宅がある集落を襲った。火砕流は家の直前で止まったが、同級生の家も、魚を捕まえて遊んだ小川もつぶされた。翌月から集落に避難勧告が出され、市内の仮設住宅で8カ月の避難生活を強いられた。
灰色の土砂に覆われ、道路が寸断された街――。いつしか、それが丸山さんの脳裏に浮かぶふるさとになった。
長崎大(長崎市)に進学した後、帰省のたびに故郷は姿を変えていった。復旧工事で土砂は除かれ、道も宅地も次々と造成されていたからだ。「こんなに早く工事を進められるのか」。土木を専攻していた丸山さんは目を見張った。
復旧工事が国交省の事業だと知り、仕事に興味がわいた。出先の九州地方整備局へ就職。ダムや河川の管理を手がけ、19年4月、念願の雲仙復興事務所へ異動した。
赴任後、大事にしてきた仕事がある。地元の小学生に自らの経験を伝える講話だ。これまでに島原市内3校を回った。伝えようと心がけるのは、今後起こりうる新たな災害への備えだ。
「溶岩ドームは、いつ崩落してもおかしくありません」。噴火でできた普賢岳の溶岩ドームが崩落すれば、大量の岩の塊や土砂が市街地へ流れ込むことが想定される。身を守るために、日頃の避難訓練が大切だと強調している。
ただ、火山がもたらすのは厄災だけではない。雄大な自然も温泉も、すべて火山の恵みによるものだと思う。だからこそ後輩たちには「火山とともに生きる島原をずっと好きでいてほしい」と願う。
一方、20年度末での閉所が決まっていた事務所で任されたのは、「幕引き」のための作業。この先も続く砂防ダムの管理計画づくりや、堰堤(えんてい)などの施設を県に引き渡す準備に追われた。
事業はどれも丸山さんが少年の頃に始まったものばかり。「先輩たちから受け取ったバトンの重さを毎日感じていました」。今年3月31日の閉所日、銘板のネジを外す際は手が震えた。
4月に福岡市に異動し、迎える大火砕流から30年の6月3日。新型コロナウイルス対策のためオンラインで集会を開き、母校の小学生に向けて防災の心構えと、ふるさとへの思いを伝えるつもりだ。(藤原慎一)
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル