虐待や貧困などで親元を離れた子どもが暮らす児童養護施設。その中には、戦後まもない時期に戦争孤児を受け入れていたところも少なくない。
埼玉県日高市で児童養護施設や乳児院などを運営する社会福祉法人・同仁学院もその一つ。今もその歴史を語り継いでいるという。
あの当時、どんな状況だったのか。創設者の長女・大久保裕子さん(83)に教えてもらった。
同仁学院の創設者は、関根幸一郎さんと妻・ヒメさん。大久保さんの両親だ。
一家は、東京大空襲(1945年3月)後に東京から移住。親族が運営していた子どもの保護施設を受け継いだ。夫妻は、当時5歳だった大久保さんを含めて5人の子を育てながら、「困っている子どもがいるのなら」と戦争孤児を受け入れたという。
最初は、小・中学生くらいの男の子たちが5人ほど来た。初めは一家と同じ家で暮らし、布団や食器も共有していた。幸一郎さんは、街中などから孤児を連れてきていたという。
こうした施設は、当時、全国各地で数多く生まれていたようだ。
関西大学の土屋敦教授(福祉社会学)によると、孤児を保護する施設(乳児院などを除く)は戦後の10年間で400以上増えた。ほとんどが民営で、多くが私財で運営されていたという。
47年にできた児童福祉法で「養護施設」と位置づけられ、施設に公的な養育費用が支払われる仕組みができた。
法人の記録などによると、同仁学院も公的な養育費用を受けたという。ただ、十分な額ではなかったようだ。
「子どもの保護など国に任せろ」 耐えた母
「母は、『絶対に三食欠かさず食べさせる』と、いつも話していました」
ヒメさんは、いもや麦、トマトやスイカなどを作っていた。豚や牛を飼い、着物や日本人形を食料と交換したこともあった。
孤児を保護する施設に、理解を示してくれる地域の人は少なかったようだ。
「子どもを収容してもうけているのか」「子どもの保護など国に任せろ。お前たちのやることではない」
大久保さんはヒメさんと一緒にいる時、周囲から何度もこんな言葉をかけられた。ヒメさんは反論せず、涙ぐみ、じっと耐えているようにも見えたという。
「戦後まもなくは、誰もが生…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル