約40年にわたってパラスポーツ選手を追い続けてきた写真家の清水一二さん(67)が16回目のパラリンピックの取材に臨む。会場や街に障害のある観客もあふれる光景はコロナ禍で遠のいたが、「パラリンピックは障害者を知る第一歩」との思いは変わらない。直接見られないからこそ、レンズを通じた発信が重要になると考えている。
パラスポーツとの出会いは43年前、大学卒業後に就職した神奈川リハビリテーション病院(神奈川県厚木市)だった。事故で切断を余儀なくされた患者の足や腕、傷口などの撮影を担当した。写真は、術後のリハビリや義足製作など患者の社会復帰を手助けする重要な資料になった。
「1人の人間にとって人生で最もつらい瞬間を記録していました」。ファインダー越しに見える現実に、20代だった清水さんはたびたび落ち込み、何度も辞めようと思ったという。
そんな状況でも続けられたのは、外科医や義肢装具士ら職場の仲間の存在だった。患者の年齢や筋肉の付き方、体をどう動かすかなど「患者の将来」を徹底的に考えぬき、切断する骨や肉の位置を細かく決めていく姿に、仕事を続ける意味を見いだした。麻酔から目覚めて絶望する患者には、カメラを置いて一晩中寄り添った。
職場の病院の受付に、転落事故で脊髄(せきずい)を損傷して車いす生活を送っていた女性がいた。昼休みにテニスをしている姿を撮って写真を渡すと、とても喜んでくれた。スキーや卓球など、さまざまなスポーツに挑戦する障害者にレンズを向けるきっかけになった。
「スポーツを楽しんでいる姿を記録することは、障害者の自己肯定につながる」。そう実感できた。
最初に取材したパラスポーツ大会は、オーストリアのインスブルックで1984年に開かれた冬季パラリンピック。選手たちは、そりにイスを載せた木製のチェアスキーを使っていた。当時日本人カメラマンは清水さんだけだった。スポーツで再起する障害者の姿を常に追いかけようと、30代半ばでフリーの写真家に。自宅近くの学校の卒業アルバム制作などを請け負い、出張費用にした。
16年リオデジャネイロ大会…
この記事は会員記事です。無料会員になると月5本までお読みいただけます。
残り:666文字/全文:1548文字
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル