軍部に批判的だった朝日新聞はなぜ、戦争礼賛に傾いていったのか――。
戦時下の「報道責任」を検証するため、朝日新聞は2007年から08年にかけて「新聞と戦争」と題した連載を夕刊に掲載し、当時の社論の変遷や社会の姿を伝えました。
12月8日で太平洋戦争開戦から80年を迎えるにあたって、朝日新聞デジタルで改めて「新聞と戦争」の一部を配信します。朝日新聞の元東京本社編集局長で、ジャーナリスト・作家の外岡秀俊さんに、当時、この企画を発案した狙いや、いまの時代に再読することの意義について寄稿してもらいました。
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「報道責任」を問う 外岡秀俊さん《寄稿》
毎年8月15日前後になると、メディアは一斉に戦争特集を組む。それに比べ、太平洋戦争の「開戦の日」は、あまり注目されない。
軍人・軍属230万人、民間人80万人が亡くなり、敗戦の日が誰にも身近な共通体験だったせいだろうか。それに比べ、開戦では極秘とされた真珠湾攻撃が、誰にも事前に知らされなかったためだろうか。
だが戦争を振り返り、「敗戦責任」を問うなら、無謀な企てに突き進んだ「開戦責任」を問うのが筋ではないだろうか。ところが「敗戦」には責任を問うべき軍部という「顔」があるのに、誰が「開戦」責任を負うべきかは、はっきりしない。
戦時中、透徹した目で国内外の出来事を「暗黒日記」に記した清沢洌は、1944年4月末にこう書いた。
「日本はこの興亡の大戦争を始むるのに幾人が知り、指導し、考え、交渉に当ったのだろう。おそらく数十人を出でまい」
「我国における弱味は、将来、この戦争が国民の明白な協力を得ずして、始められたという点に現れよう。もっともこの国民は、事実戦争を欲したのであるが」
「この時代の特徴は精神主義の魔力だ。米国の物質力について知らぬ者はなかった。しかしこの国は『自由主義』『個人主義』で直ちに内部から崩壊すべく、その反対に日本は日本精神があって、数字では現わし得ない奇跡をなし得ると考えた。それが戦争の大きな動機だ」
清沢は別の箇所で、その正体を「空気」であり、「勢い」だと表現する。では、その「空気」を醸成し、「勢い」を加速させた者は誰だろう。政治家。軍部。知識人。さまざまな顔が思い浮かぶが、忘れてならないのは、彼らの声を伝えたメディアだろうと私は思う。
朝日新聞デジタルは開戦80年の今年、かつて夕刊に連載した「新聞と戦争」の一部をアーカイブ配信するという。
この連載を始めたきっかけは、私が東京本社編集局長だった2006年に受け取った読者からの一通の投書だった。
「私が小さな頃、祖父が口癖のように言っていたのを思い出します。朝日の論調が変わったら気をつけろ、と」
祖父の警告が、今回真っ先に配信される「社論の転換」、つまり1931年の満州事変を境に、軍部批判から戦争の翼賛に転じた朝日新聞の変貌(へんぼう)を指すことは明らかだった。
私は開戦前夜の「空気」を醸成した「報道責任」を問うべく取材班を編成し、徹底的に検証するようお願いした。その際にお願いしたのは、たった二つだった。一つは一切のタブーを恐れない。二つ目は、「もし自分がその場にいたら、どうしていたのか」を常に考えてほしいということだ。この二つは表裏の関係にある。
朝日新聞をはじめ多くのメディアは、自らの戦争責任を問うことなく戦後を歩み始めた。「墨塗り教科書」のように、戦時に呼号した「鬼畜米英」「一億一心」を隠し、「民主主義」の看板を掲げた。戦後、何度か機会はあったはずなのに、報道責任を徹底究明することはなかった。先輩や上司に累が及び、ひいては自らに跳ね返るのを恐れたためだろう。それが社内の「タブー」となっていた。
だが、この検証は当事者個人の責任を追及するために行うのではない。穏やかな川が奔流の「勢い」になって、誰もが激流にのまれるメディア状況の全体像を示してほしい。それが、「もし自分がその場にいたら」と自問を促す意味だった。
20人余の取材班は2007年4月から1年間にわたって243回の連載を続けた。おそらく当時が、関係者から話を聞ける最後のタイミングだったろう。取材は記者やカメラマンだけでなく、広告、販売、航空、旧植民地の関係者にまで及んだ。
今連載を再読して思うのは、メディアが自らの報道責任を問うことの大切さだ。「大本営発表」は、軍部だけが作り上げたのではない。軍部と一体化し、それを報じるメディアがあってこそ成り立つ「フェイク」だった。
もし「フィルターバブル」と呼ばれる「情報分断」の時代にメディアが生き残ろうとすれば、自らの報道の誤りや見通しの甘さをそのつど検証し、読者や視聴者に説明することは欠かせない。その説明責任なしに、メディアへの信頼を得ることはできない。
80年前の開戦は、けっして昔の話ではない。コロナ禍のさなか、メディア報道は「大本営発表」になってはいなかったろうか。あるいは、今は「戦後」ではなく、「開戦前夜」になってはいないだろうか。この連載を、そうした「空気」に対する「頂門の一針」としてお読みいただければ、と思う。
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル