顕彰するのか、断罪するのか。第2次世界大戦末期の沖縄戦で、住民が避難する南部への軍撤退と徹底抗戦を命じた牛島満中将の評価は戦後、二分されてきた。牛島中将の孫、貞満さんは祖父の決断やその意味について考えつづけてきた。歴史的事件に関わる人物の家族として、祖父の「評価」とどう向き合ってきたのか。
祖父は、第2次世界大戦中の沖縄守備隊、第32軍司令官の牛島満中将です。祖父には命日が三つあります。
沖縄では、6月23日が慰霊の日になっています。この日に、祖父が「自決」し、組織的戦闘が終わったとされています。しかし、その後も戦闘は続きました。
家族が命日としてきたのは6月22日でした。墓にも、この日付が刻まれています。満の妻である私の祖母に、死亡日として告げられた日です。祖母は亡くなっており、誰からどのように伝えられたのかは、もうわかりません。ただ、米軍資料や信頼できる旧軍関係者の証言や研究者の調査からは、この日の午前4時過ぎに自死したことの可能性は高いと思っています。
戸籍上の死亡日は6月20日です。これは大本営と第32軍の連絡が途絶えたとされる日です。陸軍省は1945年8月4日に、牛島が死後、中将から大将に昇進したと発表しました。その際、戦死日は6月20日とされました。戸籍は、この決定を根拠にしたのだと思われます。ただ、証言などから、20日も21日も祖父が生きていたことは間違いありません。
いつ、どこで、どのように亡くなったのか。家族としては、ぜひ知りたいことですが、それが明確ではありません。
生まれ育った東京の家には、大きな額縁に入れられた、軍服姿の祖父の写真がありました。命日の6月22日には、神棚に勲章がたくさん飾られました。物静かでやさしく、子煩悩だったと聞かされていました。
成長し、沖縄戦の司令官だったことも知りました。でも、私は教員になってからも、ずっと沖縄に行くのを、避けていました。祖父について尋ねられるのは、わかりきっていましたから。でも、その答えを持ち合わせていませんでした。
1994年、気候や人々の暮らしについての教材づくりのために、沖縄の離島に行くことになりました。教員仲間に説得され、最終日だけ本島に立ち寄り、旧沖縄県立平和祈念資料館に行ったのです。気は進みませんでした。
資料館に入ると、奥の方に「…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル