いかにも国の重要文化財という堅牢さだが、この小さな部屋は全体のごく一部。実はここ、巨大な装置を揺り動かす指令室だった。
橋の真ん中に立つと、石と鉄のずっしりした重みを足裏に感じて、これが開閉式とはにわかに信じがたい。足もとがぱっくりと割れ、2頭の竜が首をもたげるようにせり上がって、ハの字に開く姿を想像する。今でも結構な見ものだろう。まして1940年の完成時、威容はいかばかりだったか。
人々は日章旗を手に盛大に開通を祝った。近くの月島で生まれ育った寺本政美さん(89)は当時を覚えていて、日に何度かの開閉には見物人が集まったと昔話を語ってくれた。「寸前に走って渡る危ない遊びもしたもんです」
開く時は土ぼこりがすごかったと寺本さんは言う。であれば三島由紀夫が「鏡子の家」で描写した様子は正確だった。橋はこちらとあちらを結ぶ仕掛けだが、開閉式は巨大な壁となって行く手を阻みもする。鏡子と3人の青年は眺め終えると、「橋が元通りになった以上、行かなくてはならぬ、という義務感のようなものだけが残った」。
その橋も70年11月をもって開閉をやめてしまった。三島の死と4日違いだったのは、もちろん偶然に過ぎない。
「鏡子の家」に先立つこと約10年、小津安二郎は映画「風の中の牝鶏(めんどり)」で勝(かち)鬨(どき)橋(ばし)を映している。主演の佐野周二が訪れる河原の向こう、閉じたままの橋である。周りは何もない。映画は夫婦の再出発に敗戦からの再生を重ねていた。
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それから幾星霜、いま橋にた…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル