27日午後10時3分。高く打ち上がったボールが捕手のミットに収まると、ベンチから選手が駆け出し、エースの懐に飛び込んだ。
ソフトボール日本代表の金メダルの瞬間を、横浜スタジアムのスタンド記者室で見届けた。机の前の小さなモニター画面で一人ひとりの表情を追いながら、13年前の記憶を重ねていた。
2008年8月、私は就職活動中だった。北京五輪のソフトボール決勝があったその日の夜、福岡のビジネスホテルにいた。
同い年か。すごいな。テレビがマウンドで投げるエース上野由岐子選手の姿を映す。何の気なしに見始めたのに、腰掛けたベッドから動けなくなっていた。
金メダルの瞬間は、言葉にならない叫び声を上げ、ベッドの上で泣いて跳びはねた。当時26歳のフリーター。一念発起し、大学既卒でも受験できる会社に挑んだが、春は全滅。秋も就活を続けた。不安と焦りに押しつぶされかけた日々に上野選手から力をもらったのをよく覚えている。翌日、その足で面接へ向かった。
13年後のマウンドにも、上野選手はいた。
試合後、上野選手は「前回の金メダルと違って、地元開催でプレッシャーも大きかった」と語った。
北京後はロンドン、リオデジャネイロの両大会で実施種目から外れた。東京で復活し、「復興五輪」の位置づけで全競技中、最初に福島で競技が始まった。だが、無観客になった。
「色んな思いのなかでスタートしたオリンピックだった」。一夜明けた会見で、言葉を選び、語った。
「この13年間の思いを一球一球にしっかりこめて、福島の地にも思いを置いておくことができたと思う。最後まで、一球に思いを込めることができたオリンピックだった」
上野選手は、ソフトボールの未来も、福島への思いも、テレビで見ている人の勝利への願いも背負っていた。
試合後に仲間たちとハグしてまわるその表情は、試合中の険しさから一転して、屈託のない笑顔だった。13年前の夜、テレビ越しに見た26歳のエースの笑顔と変わらない表情の中に、安堵(あんど)が加わっているように見えて、胸がぎゅっとなった。少しは肩の荷が下りただろうか。(斉藤佑介)
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル