終戦後、上野駅で暮らす多くの戦争孤児を保護し、私財をなげうって育てた1人の主婦がいた。東京・中野の「愛児の家」で園長を務めた故・石綿貞代(さたよ)さん。母の姿を記憶する三女の裕(ひろ)さん(90)に話を聞いた。
終戦直後の1945(昭和20)年秋ごろ。貞代さんの友人が戦争で孤児になった男の子を保護した。その子を貞代さんが自宅に住まわせたのが、最初だった。
翌年から貞代さんは上野駅に通って寝ている孤児たちに声をかけるようになった。本人が希望すれば連れて帰った。
最も多いころには100人超が自宅にいたという。「『子どもたちをなんとかしなくちゃいけない』と母は必死だったと思う」と裕さんは話す。
48年の厚生省(現・厚生労働省)の調査によると、米軍統治下だった沖縄県を除く46都道府県に12万3511人の孤児がいた。
空襲や海外からの引き揚げで親を失ったり、はぐれたりした子らだ。
国は養子縁組を進めるなどの対策を打ち出したが、保護しきれずに駅で暮らす孤児が続出した。亡くなる子どもが少なくなかった。(長富由希子)
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル