海は穏やかで、波乗りを楽しむ人は普段より少なかった。昨年12月10日早朝、神奈川県の逗子海岸。米国から来日して4年目となるクリストファー・デロングさん(30)は仕事の前に、趣味のスタンドアップパドルボード(SUP)に乗り、海へ出た。
沖合から崖の上を走る国道を遠目に見ていると、崖下にシルバーの乗用車が静かに波に揺られていた。車が行き交う道路からは約10メートル下。周囲に人影は見えなかった。
「落ちたところは誰かが見ていたはず。車だけ残っているのだろう」。そう思って通り過ぎようとした。だが、「もしまだ誰かが乗っていたら……」。思い直して車に向かってパドルをこぎ出した。
帰ってきた弱々しい声
車は上部を残してほとんどが水中に沈んでいた。近づいていくと、運転席のあたりで顔だけを水面から出した男性が窓越しにこちらを向いていた。「大丈夫ですか!?」。日本語で呼びかけると「大丈夫です…」。弱々しい声が返ってきた。
携帯電話は置いて出たため、崖を登って国道に上がり、両手を振ってアピールした。間もなくして男性が近くを通りかかり、110番通報を依頼した。
「もし車内で意識がなくなったら危ない」と近くにあった岩を拾って崖を下りた。ケガをさせないように後部座席の窓を割った。身体を引っ張り出そうとしたが、男性はうつろな表情で「メガネ、メガネ」と言いながらぐったりしていた。救助が到着するまで男性が溺れないように見守った。
逗子署によると、乗用車を運転していたのは50代男性で、デロングさんが発見する数時間前に国道134号の左カーブで対向車線にはみ出し、そのまま柵を突き破って海中に転落した。低体温症で意識がもうろうとしていたため病院に搬送されたが、かすり傷で済んだという。
「誰かが、ではダメ」
デロングさんは、米シアトルに留学していた日本人女性と結婚し、いまはインバウンドのマーケティング会社で大好きな日本文化を海外に紹介している。コロナ禍でリモートワークになったことを機に、都内から逗子へ引っ越してSUPを始めた。昨年には長女も誕生し「ここがふるさとになって本当によかった」と目を細める。
署から感謝状を贈られたデロングさんは「anyone(誰かが)と思っていたらダメ」と話す。新天地では多くの仲間もできた。「海にいる人は誰でも明るくて親切。(救助は)たまたま誰もいなかったから。Anybody would have done it.(誰でもやったでしょう)」と謙遜した。(黒田陸離)
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル