目の前に静かな海が広がる仙台塩釜港石巻港区(宮城県石巻市)の一角。5階建ての石巻港湾合同庁舎内に石巻海上保安署はある。1階の天井近くにある標識が、約8メートルまで到達した10年前の東日本大震災の津波の脅威を物語る。
かつては2階建ての庁舎だったが、震災後の2014年に建て替えられた。11年3月11日。旧庁舎の1階にあった掛け時計は、午後3時38分を指したまま止まった。
当時の巡視艇「しまかぜ」航海士補の石川琢朗(42)、次長の榊(さかき)浩文(58)、署長の三河勝志(68)ら署員にも、その津波は襲いかかった。
三河が新年度の引き継ぎで、後任職員を自家用車に乗せ、港湾の案内をしていた時だった。携帯が「ウィッウィッ」と鳴り、車が大きく揺れた。
「津波が来る。早く戻って指示を出さなければ」。急いで庁舎に戻った。
いざという時のため、大きな発電機を2階に抱えて運び上げた。乗組員の職員には、「船で行けるところまで、遠い沖まで出ろ」と指示を出した。
100メートル先「何かがおかしい」
石川ら4人の乗組員は、すぐに埠頭(ふとう)に向かった。「しまかぜ」(全長約20メートル、約26トン)と監視取締艇「ぺるせうす」(全長約8メートル、約5トン)に分かれて乗り込み、沖を目指した。
津波から船を逃すには、水深40メートルのところまで向かうことが決められていた。年に1度、津波を想定した緊急出港の訓練も行っていた。その内容を頭の中で再現した。
埠頭付近に作業員や釣り人の姿は見えなかったが、石川はぺるせうすのかじをとりながら、岸壁に向かってマイクで叫んだ。「大津波警報が出ました。すぐに逃げてください」。
すぐ後ろについてくる、しまかぜを確認しながら前へ前へと進んだ。
拡大する巡視艇「しまかぜ」から撮影した監視取締艇「ぺるせうす」(奥)=2011年3月12日午前5時30分、第2管区海上保安本部提供
10キロほど沖の目標地点に到達し、エンジンをかけたまま待機した。冬の石巻湾は風が強い。しかし、この日は珍しく、気味が悪いほどべたなぎ状態だった。
1時間ほど、そこにいた記憶がある。「全然来ないな」。ふと同僚が沖を指さした。「あれ津波じゃないですか」
記事の後半では、津波に遭遇した乗組員たちと、庁舎に残った署長のその後を描きます。文中の敬称は略しました。
沖から一筋の波が迫ってきた。…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル