校則を変えるのは、生徒か、学校か――。近年、「下着を白に限定」「冬でもマフラーの着用禁止」などの理不尽な「ブラック校則」が社会問題になるなか、全国で校則を見直す動きが広がっている。ただ、名古屋大大学院の内田良教授(教育社会学)は、生徒を主体とした校則の見直しが「美談」にされているとして警鐘を鳴らす。
理不尽な校則を子どもたちに変えさせるのは「理不尽」
今、校則改革の物語のほとんどは、子どもたちが主体となって校則を変えていくものになっています。でも、「まずは先生が変わらないといけない」というメッセージを色んな人に理解してもらいたいと思っています。
僕は教育学者として、子どもたちが主体的であることはすごく大事なことだと思います。校則をゼロから作るときに、子どもたちが「このルールは必要だね」と議論するのはすごく素敵だし、それだったらやってもらいたいと思います。
一方で、今は理不尽な校則が多いなかで、それを子どもたちに変えさせるのは「一体どれだけ理不尽なのか」と思います。
ある高校の生徒会では、腕まくりを解禁してもらうために5年かかったそうです。「そんなの自由じゃん」と僕は思いますが、子どもたちに5年も努力させて、少しの自由だけを認めて、「子どもたちが主体的に動きました」と美談になっている。
でも、こんなのは地獄絵図だと僕は思います。「腕まくりは好きにすればいい」という校長の一言で済むことなんです。
理不尽な校則がなくならないのは、先生や学校だけの責任ではない――。記事の続きで内田教授は、校則を厳格化してしまう社会の構造的問題を明らかにし、「校則のあるべき姿」について語ります。
校則における加害者、被害者の構図で言えば、被害者に変えさせて、それが美談になるというのは教育上も非常に良くありません。コストパフォーマンスからしても、5年かけてこの程度のことが実るだけなら、僕は校則改革はやらなくていいし、他のものにエネルギーを使ったほうがいいと思います。別に他の色んな場面でも、子どもの主体性は発揮できます。
先生「ルールなくしたら何が起きるか…」
理不尽な校則がなくならない理由の一つは、先生がまだまだ子どもを信じ切れていないのだと思います。
背景には1980年代ごろに…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル