聞き手・日浦統
1997年11月17日、北海道拓殖銀行は破綻(はたん)した。道内の店舗網を北洋銀行が譲り受けることはその2日前に決まっていた。信用不安を引き起こさないため、金融当局が調整したからだ。札幌商工会議所の高向巌名誉会頭(83)は当時、北洋銀の副頭取として最前線で陣頭指揮をとった(その後同行頭取)。「北海道経済を支えるという大義」があった25年前を振り返り、得るべき教訓を語ってもらった。
――破綻前の拓銀をどう見ていましたか。
「やはり道内ナンバーワン・バンクで非常に力もある。ただ、(財務状況が)だいぶ弱っていることはわかっていた」
「営業譲渡の話は15日に来た。午前11時に日本銀行の増渕稔信用機構局長(当時、以下同じ)から私に電話が入り、大蔵省の内藤純一銀行課長から拓銀が事業継続を断念し、北洋が受け皿になるということを初めて知らされた」
「それ以前から、万が一の場合、拓銀と合併できるかという話はあった。(元日銀マンの)武井正直頭取と私、日銀の本間忠世理事と増渕局長は恒常的に接触していた。ただ破綻後の処理ではなく、合併を申し込まれたらどう対応するかという話だった。日銀という組織は長い目で物事を見る。私は道銀との合併交渉が頓挫する前の、もっと早い段階から、もし合併になるとこういうことが起こるといった頭の体操はしていた」
「北海道経済のため」決断
――当時は北海道銀行と拓銀の合併交渉も進んでいました。
「あの2行が合併すれば、圧…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル