「熱があり、顔が赤い。苦しそう」(2011年5月14日)
「痰(たん)で苦しそうな様子」(同年7月23日)
「息が苦しそう。ぜいぜいしている」(同年9月19日)
東京都内に暮らす叔母の大内貞子(ていこ)(70)は2011年、横浜市内の病院に避難を余儀なくなされた祖母の正子(まさこ)を見舞った際に、祖母が肺炎を繰り返し、苦しんでいる様子をメモに残していました。
ポッドキャストでは、津波に襲われた小名浜港を巡ります。姿を変え、見覚えのない街となってしまった故郷。ですが、希望の光もほの見えました。被災地のいまを、未来を、一緒に考えてみませんか。
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祖母は東日本大震災が起きる前までは、ぼくの実家がある福島県いわき市の介護施設で暮らしていました。震災直後に地震と東京電力福島第一原発事故による混乱のため、介護施設から一時的に実家に戻りましたが、結局、横浜市内の病院に避難することになりました。その半年余り後の10月に99歳で亡くなったのです。9月に子どもや孫、ひ孫ら約50人が都内に集まり、数え100歳の祖母の白寿を祝った直後のことでした。
何年も寝たきりだったとはいえ、いわき市内の介護施設で過ごしていた間、祖母の容体は安定していました。主治医は「100歳まで生きますよ」と太鼓判を押していたほどでした。原発事故がなければ、あと1年、本当に満100歳まで生きたのではないか――。これが、親族に共通する思いです。避難先が遠方で、死に際をみとれなかった悔いもあります。
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- 実家の半壊や祖母の震災関連死。放射能の数値。そして両親は70歳代に――。東日本大震災の被災地である福島県いわき市に生まれ育った47歳の記者が、この10年間に故郷の農村と家族の身の回りに起きた出来事を、10回にわたってつづります。
拡大する2012年夏の新盆。父方の祖母が前年10月に避難先で亡くなり、初めてのお盆を迎えた。実家に灯籠(とうろう)がともった=2012年8月撮影、福島県いわき市
ぼくの父義洋(よしひろ)(7…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル