戦争が終わったのは3カ月前。暑い夏が過ぎ、季節はもう冬になった。
東京の親元を離れ、この寺でみんなで暮らし始めてから1年以上になる。
「このごろは、しもがおりて寒さがきびしくなって來ましたが、その中を私たちは元氣よく毎日のやうにかけ足をしてをります。(中略)二十五日の日はお汁粉をたべました。とてもあまくておいしいお汁粉でした」(4年女子、原文のまま)
「この前とりをころして村のおぢさんに、にくだんごうおこしらへました。(中略)私達は勉強したり運動したりしていますから御安心ください」(4年女子、同)
1945(昭和20)年11月29日。片柳村(現・さいたま市見沼区)の万年寺(ばんねんじ)で、36人の子どもたちが鉛筆を手に絵日記を書いていた。東京都の「阪本国民学校」の2~5年生だ。
「さつま芋掘をしました。そばの取入れもしました。(中略)遠足も行きました。では僕達は三月までがんばります」(5年男子、同)
国民学校は今の小学校にあたる。同校は44年8月から、都市部の子どもを地方に移動させる「学童疎開」をしていた。
戦後も子どもたちが寺にとどまっていた理由は、どんなものだったのか。
「万年寺だより」と題されたこの絵日記は、1日分だけが冊子にまとめられ、寺に今も残っている。日記を読み解いた元高校教諭の関原正裕さん(70)=さいたま市=は、授業の一環で先生が書かせたとみる。
「引き取り手が見つからない」状態だった可能性も
「日記を描いたのは、その時点で親や身近な親戚の引き取り手が見つからず、疎開を続けざるを得なかった子どもたちだったとみられます」(関原さん)
45年8月15日、日本は敗…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル